「可哀想な高校生」と形容した自らの発信力・発表力の類への謎が解明されつつある。
診察にて、主治医との会話の一部。
私:発表とかプレゼンテーションが得意だとずっと思ってたんですけど、実際はそうじゃないのかなって気が付いたんです。(深刻)
医:そうなんだね。私の考えだとね、そういうのはその時によって違ってくると思うんだよね。
私:あ~、成長?していくってことですか?
医:うん~、得意な人だってうまくいかない時もあるし、不得意な人だって練習すればうまくいく時もあるし、繰り返すことによって変わるし。その時その時なんじゃないかな。
私:いえ、先日、試しにわざと発表を控えたんですね。そしたらとてもラクだったんですよ。発表した時は物凄く疲れたというか。
医:そりゃあ、疲れるよ。
私:……え?そうなんですか?
医:そうだよ。
私:ものすごーく遡ると、高校生の頃からずっと発表とかプレゼンしても疲れなかったんですよね、最近ものすごく疲れるんです。だからやめた方がいいのかなと…。(再・超深刻)
医:ああ~、「疲れ知らず」ね。それはハイだったからなんじゃないの?
私:疲れ知らず(!!)え。ええ!?じゃあ、、、発表したら疲れてもいいんですか?
医:そりゃあ~疲れるよ。得意な人だって誰だって疲れると思うよ。
私:そうなんですね~~~。(まぁじかぁあああああああ!!!!)
目からうろこと言うにはまだ及ばない部分もある。しかし私の中の「当たり前」はだいたいこのように何気ない会話(元はそのことが焦点ではない会話など)で発見され、くつがえされてきた。
支援機関で発生することが多かったが、今回は診察の場面で世の中の「当たり前」を1つ知った。当たり前過ぎることを言っていてこの内容がない会話の意味、心境を汲み取れるひとは少ないのではないかと思う。
発表を無理に控えることは、私もおそらくしなくてよいのだろう。
たぶん、世間一般的な頻度で、世間一般的な度合いで「疲れればいい」のだ。
発症の事実はあれど、自分を変えようとしたこと「自体」が発症のキッカケとは言いがたいのかもしれない。
むしろ「疲れ知らず」を体験できたことは割とレアなことでもある。だからといって良かったとは生涯思えそうもない。
今後も私が「当たり前」だと思っていることにおいて―特に不自由に感じる点において―私の中での「レアな発見」として塗り替えられていくのだろうか。
不自由に感じることなどはすぐには浮かばない。
それは「不自由」と叫ぶには私にとってあまりに、「当たり前」過ぎるのだ。
主治医は終始ゆったりとした口調で受け答えをするため、私のテンポも控えられる。内心ではまるで大ハプニングに出くわしたかのように右往左往しているのにも関わらず。