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理刹主義-躁鬱病と診断された女-

昭和生まれ、社会生活より閉鎖病棟生活の方が長い。病的被害者ではなく社会的加害者の自白。

推論の誤りと概念の消失

人間とは誰しも疲労し疲弊するものだ。

 

私は普段「疲れた」という言葉を発しなかった。ある時からは発しないよう心がけてきた。

「疲れた」と言ってもよいのは“高度な仕事”をこなしている人や肉体労働やスポーツに励んでいる人々、思い切り心置きなく遊び倒した場合などに限ると考えたからだ。

私はそれらに該当しない。私は「疲れた」と言ってはいけない・私は疲れる「べきではない」と何年にも渡り思い込んでいたのだ。

 

視点を変えると、躁病相において私は「疲れる」ことを知らない体験をしている。

それは病状であったという知識は後から知り得たことだが、認識のどこかで「疲れない躁状態」を理想に感じる、あるいはごく当たり前のことであったと思っていたのかもしれない。

反動さえなければあれは便利であることに違いはない。ただし必ず反動はあるのだ。

 

もちろん無意識に「疲れた」という言葉を発していたことはあるかもしれない。

しかしそこに「疲労という概念」が伴っていなかったこともまた確かだった。

 

疲労とは一体なんなのだろうか。この感覚はなんだろうか。

 

のんびりと2日ほど考え、頑丈で全く見えなかったこの「すべき思考」を発見するに至った。

「概念の消失」という言葉があるのかは知らないが、仮にそれに気がついたとでもいってよいのだろうか。私は「疲れる」という言葉と概念を自分の中から無くそうとしていた。無くそうとしたこと自体までも無きものにしようとしてきた。それを認めた上で知ることができたのだ。

 

推論の誤り・認知の歪みには様々な種類がある。その中のひとつが「すべき思考」だ。

近年の私は「すべき思考」は薄れてきていると思っていたが、それもまた推論の誤りに過ぎない可能性が高いことを知る。

しかし一気に誤りを探そうとしても「疲れる」だけだろう。

 

現段階で言える確かなことは、今後は私も「疲れてもいい」のかもしれないということだ。