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理刹主義-躁鬱病と診断された女-

昭和生まれ、社会生活より閉鎖病棟生活の方が長い。病的被害者ではなく社会的加害者の自白。

こどもをつくらないりゆう

私はこどもが好きだ。

私は必要十分な理解のあるパートナーに恵まれている。

一般的にいわれる「出産適齢期」の終盤は近い。

 

私は私の人格を保つだけで精一杯だ。

私は私の人格を保てないことがしばしばある。

私は「人格を保てない私」も含めて私であると理解している。

私は母親が健在のうちに孫の顔を見せたいと切望していた時代がある。

私は精神科薬を6種類服薬している精神異常者だ。

 

もしもこどもを授かることができたとしたら

彼または彼女は何らかの先天的な障害を持っている。

時代は進み彼または彼女は現代以上に生きにくさを感じることになる。

私は彼または彼女が「生きたくない」と言った時にそれを否定する能力が欠落している。

 

私は彼または彼女のために生きる環境を用意することが困難である。

 

私は私の遺伝子を後世に残したくはない。

社会的生存が困難になるきっかけ

意味もなく生きていた。

1ヶ月ほどの間で徐々に思考力は上がり、行動が伴わない日が続いた。

就労移行も3月までは在宅支援が続き、人が多くいる場所に出向くことが久しぶりだった。

 

気持ちは行きたくない・新年度でなんとなく使命感はある。

 

朝から気分はバラバラだったのだ。

そんな日に事件は起きた。

ちょっとした認知の歪みから故意に他者を困らせる言動をし、対人関係に害が及んでも構わない、あるいはこの程度で害が発生するわけがないと開き直るほどの状態に陥ったのだ。

それで間違いはないと思い込んでいた。

その点に注意を促されてから思考を修正するまでに3〜4時間ほどの時間を要した。

結果として躁転のデータが取れたので良かったことになっている。

 

良かったことになるまでの時間が苦しい。

まず明らかに対人関係に害を及ぼす「黒」としたものを素直に灰色にはできないのだ。

灰色にすること、白にすることが大げさでなく私の存在否定かのように感じる。

徐々に「黒では良くはない現実」をなんとなく認識し始める。

認識したところで、次には黒だと主張したことを撤回することを猫の額ほどのプライドが許さない。

その間に指摘されていることはもっともであるという認識も大きくなる。

「今日は具合が良くないのかもしれない」

精一杯の譲歩で出てくる発想。そこに誠意はまだない。

解せないままで表面上、黒を灰色に塗り替え帰路につく。

そんな時、私自身の全てに意味も価値もないと激しく思い込む。

それは歩いていてそのまま大通りに飛び出しそうなほどの強迫めいた観念だ。

このまま飛び込めば私に対する見せしめになる。そんな風に感じたりする。

たぶんそうしてはいけないと考えられるようになったのは本当に近年の話である。

「病的な躁転」の一部始終をはじめて厳密に自覚したかもしれない。

 

飛び込むこともなく、たまたま自宅にいた親族に連絡をしながら、2本同時にインクが出なくなって困らされた黒いボールペンを新しく3種類購入してふらふらと帰宅した。

 

ある程度落ちついてから注意を促してくださった支援員に感謝の連絡を入れた。

精神科にも毎週通うほど、この頃の気分の移ろいには要注意である。

自殺志願者が35年も生きた意味

私は今日までよく生きてこられたものだと思う。

なんだかもうじゅうぶんだろう、こんな気がするのは初めてな気がする。

何かに絶望でもしたのだろうか。

特に何でもなく普段通りの在宅支援を受けた。

特に何でもなく普段通りに求人検索もした。

特に何でもなく普段通りにタイピング練習をしていた。

特に何でもなく普段通りに報道番組を聞き流していた。

大きな出来事は見当たらない。

だとするならば蓄積になる。

少しずつの何かマイナスなことを発散できていなかったのだろう。

毎日記録をつけても気づかないこともあるのだなあ。

己の能力に万能を求めているとでもいうのだろうか。

そんなことは不可能だ。

不可能だ。

 

ここへきてこの文書のタイトルを打ち込んだ。

理由があって生きてきたわけでもないので

理由もなく惰性で生きて行くしかないのだと思う。

何か、ひとのために命を使えたとしたら価値観が変わるかもしれない。

そのために働きたいのかもしれない。

散々書くことができない志望動機に命レベルの重みを加えたところで、それは病的な戯言に過ぎない。

概ねわかってはいるのだ。

 

35年とは、世の中にはなかなかの発展があったはずだ。

35年とは、何の意味があったのか。

むしろ意味を残して命をまっとうした人間など史上存在するのだろうか。

いまの私にはどれも同じに思える。

10日足らずの高低差にも何も感じない。

ホームポジションは自殺願望

私のホームポジションには「自殺願望」という文字がある。

過去形にしたいものの未だに完全に消しされたとは言い切れない。

小学校高学年の頃からだろうか、以前にも書いたような気がする。

ある時突如として世の中の何もかもが虚しく意味のないものにしか思えなくなったのだった。

その矛先が向かったのは自分自身の存在に対してだった。

「誰にでもそんな風に考えたりする時期はあるの。それが周りの子たちより少し早かったんだね。」

親や学校の先生はそう言った。

 

その頃から熱心に聴き込むバンドが1つあった。

彼らがいるから、彼らのライブに足を運びたいから生きていなければならない。

彼らの存在が生きるすべてだった。

彼らの楽曲が「生きろ」と云うから、私は生きていた。

そのバンドも解散するが、時を同じくして私には「演劇」があった。

勉学を疎かにして生きる全てを注ぎ込む部活動があった。

周りに相談することが出来ない人間は必ず挫折する。

これ以上「演劇」ができないと感じた時、「生きろ」と云ってくれる存在もないことに気がついた時、ホームポジションに戻り死のうとすることを選んだ。

連れて行かれた先の精神科医はいぶかしげだった。

「このくらいのことで自殺行為に及ぶとは到底思えない」

ごもっともな意見だ。しかしそれは本来心身ともに健康な人間んであれば、の話である。

 

少し早かった思春期はいつまでも終わらなかった。

生きていることに対する苛立ちは怒りを通り越して怨みとなり生みの親に向けられていた時期も長くある。

 

「どうして貴方がたの勝手な都合で私を産み落としたのですか」

 

怨んでも怨みきれない。死のうとすれば死ぬなという。何もかもが解せない。

そのうちに希死念慮といった言葉も覚える。

どちらかというと自殺願望よりも希死念慮を抱いているのだろうと気がつく。

いずれにせよ死ぬべきだという思考に支配されながら生き続けることは苦痛でしかない。

しかし私には苦楽を共にし感動を分かち合える友人たちがいた時期もあった。

それもまた、熱心に聴き込むようになった別のバンドを通して知り合った友人たちだった。

バイトも仕事も、ライブに行くためだけ。命を続けるためだけに続けた。

本来やりたかった仕事にもほんの少し携わることができた。

ホームポジションに戻るにはそのほんの少しの間で充分すぎたのだった。

閉鎖病棟常連者となり、躁鬱病と診断されるころには私の周りには本当の意味では誰もいなくなっていった。

閉鎖病棟にしか居場所はない、そう思って疑わなかった。

 

福祉施設には自力でたどり着き新たなコミュニティも築き始める。

するとどうやら、世の中の人々は常に死ぬことを考えているわけではないらしいことを知る。

いつ頃にどうやって気がついたのかはよく覚えていない。

自殺行為を繰り返すことが警察沙汰に繋がったり医療従事者を困らせたりしていることから「異常」なことであると徐々にわかってきたのかもしれない。

死ぬことを考えながら生きているわけではないのだとすれば、さぞラクだろうなと思ったことがある。

一体どれほどラクなのだろうか。

 

私は10代より以前からうつを発症していたのだろう。それをうつ状態と認識することなどできるわけがない。私の中ではごく当たり前の思考なのだから。

そこを無理やり生きなければならないと考えるとテンションを上げざるをえない。

それらが繰り返されて躁鬱病になっていた。これが現段階での私の仮説だ。

 

もしも「死にたい気持ち」を押し殺して生きている人が他にもいるのだとすれば、それは「正常」ではないということに気がついて受け入れることをしなければならない。

もっと早くに受け入れられていれば、友人を無くすこともそれほどなかったかもしれない。

34分の4で人生は変わる

退院してから4年が経とうとしている。

この4年間で私は本来の人間になりつつあるのかもしれないことをなんとなく感じる。

 

10代の頃から希死念慮や自殺願望は誰にでもあるものだと疑わなかった。

私自身が常に持っていただけであって、それははっきり言って普通ではない。

普通ではなかったことを知るのはずいぶん後の話だ。

20代の頃は普通ではないことを開き直っていた。

私は精神異常者だと触れまわり、それまでの大切だった人間関係は崩壊した。

心身ともに充実していてよいはずの20代は非人道的に過ぎていった。

30代になり、もうそろそろ自殺しても良い年頃だと本格的に考える。

それは高校時代の恩師が現代社会の授業で「自殺するなら30まで生きてからにしろ」と諭していたからだ。

度重なる未遂はどこか自分の命を弄んでいたかのようだった。

自分の存在に価値などない。

そう思い込んで止まなかった時代が徐々に変わりだしたのは31になってから。

漠然とこのままではダメだと強く思い込んだことで人生はまるでリセットされたかのように「ひとらしい道」を選び始めた。

福祉施設に出会ったこと、そこに受け入れてもらえたと感じられる環境があったこと、支援を受けられたこと、ヒトとは死にたいと思っているものではないらしいことがわかり始め、私もそうなれたらいいなと穏やかな願望を抱きながら精神面を安定させるためにできる記録は全てつけ続け分析した。

それの成果はまだ未完成である。いまなお、よりよい状態に繋がるために日々セルフケアも欠かさない。

「セルフケアって、自分でケアできれば苦労しない」と感じていたのは2年ほど前までかもしれない。

 

完全に安定することは成し得ない。

いかにバランスをとるか、いかに自分を大切にできるか。

こういった考えにたどり着くまで、私には4年は必要だったのだと思える。

これはこの先も続いていく。1年後にはまた違った風景が見えているかもしれない。

眠れないと

眠れないとつらい

眠れないとハイになってしまう

眠れないと焦る

眠れないと明日動けないかもしれない

眠ったら朝になってしまう

眠らなくても朝は来てしまう

眠ったらラクかもしれない

眠ろう眠ろう眠ろうと考えてしまったら

眠れなくなるものだ

朝になるのを怖いと感じるのは結構久しぶりだと思う

習慣化、継続を目指せるとき

緊急事態宣言が発出されてから、なにかと物事を継続している。

これは良好サインなのだろう。

まだ1週間や2週間で継続ということもおこがましい。

それでも私の中で新しいことを同時に始めることは極めて稀だ。

こういったとき、特別に他者と比べたりしていないことにも気がついた。

気がつく余裕がある。

 

これらができなくなる時は確実におとずれる。

それを予測しながら、できれば回避する術を考える。

目標はスモールステップが良いという話もよく聞く。

小さな成功体験を継続することはとても大切なことである。

できなくなったとき、せめてできなかったことをこのブログに嘆くことに決めるのは果たしてスモールステップだろうか。

くだらない対抗心

日常生活や支援機関において他者に対して負けまいとして張り合う気持ちはくだらない。

元来持っているものが全く違う上に目指すものもおおむね異なるからだ。

職場であれば対抗心を燃やしたりしてもよいのかもしれない。

企業の成長に繋がる可能性があるからだ。

 

前者の場合、そもそも何に関して張り合うのか理解に苦しむ。

しかしながら張り合って苦しんでいる人がいる。やめればラクになるのに。

考え方ひとつで片付けられるストレスはできる限り抱かないに越したことはない。

それに気がつかない時というのは、他者に負けまいとしているのだろう。

どうせなら自身の特性に負けまいとしたほうが建設的である。

今の自分に対して対抗心を持つことによって自己成長を促すことができるのではないだろうか。

 

そんなことを考える私は抑うつ気分ながら思考は躁寄りでこのような時間に記事を作成しているのだから何もかもに勝とうとしていないことがうかがえる。

絶望的な交友関係

昔の友人の夢を見た。

楽しい夢のなのか、そうではないのかいまいち分からない。

それでも彼女たちはいた。

 

彼女たちと交友を絶ってから5年ほど経つかもしれない。

7人ほどのグループで、もちろん個々に仲の良い者同士もいたかもしれないが、何かあると決まって全員に声がかかっていた。

おそらく今もそうしているだろう。

交友を絶った理由はつまらない劣等感と、特定の人物から嫌悪されたことだった。

当時私は決められた時間に決められた場所へ出向くことが困難なことも多々あった。

ある時に度々出向けない自分のことが嫌になり、開き直って暴言を吐きながらグループを抜けたのだった。

その後冷静になり6人ひとりひとりに謝罪の文書を送った。その時のやりとりはほとんど記憶にないが、少なくともハッキリと復縁を勧める内容のものはなかったような気がする。加えて私の認知も歪んでいた。

 

今になって、あの仲に戻ることができたらどれほど楽しいかとなんとなく思う。

仲に入れてもらわなくても構わない。6人の中の誰かと復縁できたら良いのかと考える。

しかしそうした時、誰と復縁したいというのが特に浮かばない。

おそらく「誰」ではないのだ。復縁するのなら、あの集団と復縁したい。それは極めて難しいことだ。女同士というのは、そういった世界だと嘆かわしくなる。

 

病状が安定してから昔の友人と交友関係を持つという話をたまに目にする。

その人が元来深い交友関係を持っていたのか、私の病状がまだまだ安定していないのだろう。

当時の交友関係が浅かったとは全く思わない。

緊急事態においても就活

眠ることによって思考がリセットされることは多い。

履歴書や職務経歴書の作成でがんじがらめになっていた。

なぜ会社に入る前段階がこんなにも苦行なのか、改めて我が国の流れを呪いたい。

それでも自発的に応募書類を作成し始める日が来るともあまり思っていなかった。

その点は自らを評価しようと思う。

評価したところで、である。

 

どのような説得力を持たせる文書が適切なのか、まるで見当がつかない。

応募書類作成のいろはのようなサイトは散々拝見した。

ほとんどが実務経験があるか、まったくないかに二分化されている。

私は極めてイレギュラーかもしれない。

就労移行事業所のスタッフも赤ペンを入れる程度をためらうほど悲惨なものしか作ることができないでいる。

なんか既にいやだ。そんなところで昨日は夕方寝てしまた。

 

こういったとき、事業所の環境は実に私に適さないと感じる。

誰もが一般長期就労を目標に掲げ、利用期間も短く就労にたどり着いているからだ。

良くも悪くもなんとなく自分もそうしたほうがいいように感じてしまう。

一般就労がすべてではないことを主張したくなる。

しかし私にも新たにした志がある。昨年10月で異動された支援員の方のおかげだ。

私の利用は実質昨年の10月から始まったと言っても過言ではないほどの実績を積み始めている。

私には私の過ごし方とペースがある。

それを見失って目先の就労だけに踊らされては本末転倒だ。