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理刹主義-躁鬱病と診断された女-

昭和生まれ、社会生活より閉鎖病棟生活の方が長い。病的被害者ではなく社会的加害者の自白。

謝罪の真意

謝罪することとは何なのか。

正直なところよくわからない。

 

なんとはなしに私の幼少期の頃のことを母親本人に聞くことができる会話の流れがあったため浮上した疑問である。

 

「いい子の人生」とは過去に記したものの、そのさらなる根本が私の記憶には皆無であった。

幼少期の私は実の親から見ても、とてつもなく我を張る子どもだったらしい。

たとえば理不尽な癇癪のようなものを起こしたりした時、はじめのタイミングを逸してしまうと自ら謝ることがまったくできなかったのだそうだ。

そして母親は「私たちはあなたが本当は自分が悪いと思っているのに謝れないだけだということが分かるけど、しっかり謝れないとよその人は分かってくれないのよ」と諭し続け、父親は「三つ子の魂百までとはよく言うから先々困ることだろう」とぼやき続けたらしい。

 

悪いことをしても謝ることができなかった「意地っ張り」な記憶はほんのりと蘇った。しかしそれを諭された記憶が怖いほどに見当たらない。

 

聞く耳を持たないとはまさにことことだろう。

そのうちに「仮面いい子」が芽生え始めたのだ。

 

「この子は自分が謝らなくて済むように生きようとしているのではないか」

 

両親はそう話し合っていたという。

 

 

考えてみれば酷い話だ。

確かに現在の私は私自身が本当に悪いことをしたと思っていないのにも関わらず謝罪の言葉を発した場合、なんとか因果関係を持たせようとして意味のわからない理屈を立てて私が悪いのだと言い聞かせようとする。

その時はいつでも、内心「果たして私が悪いのか、違うのではないか」と割と長いこと根に持ってしまう。

それでも謝ればことが済む環境に甘んじて謝ることしかしていないような気がする。

 

もちろん、他愛ない会話の中で謝る言葉は出てきて構わないと考える。

適度であればそれらは人間関係を円滑にするだろう。

 

問題は深刻な状況下や社会人的な対応を迫られる時だ。

私はほとんど、心底私自身に非があったと認識しない限り真意のある謝罪をしない。

口先だけで済ませている自覚さえある。

 

そうすると、おおかた私は意見や意思を他人に否定されることを必要以上に拒む傾向が強いのだということを確信するに至った。

 

私を否定するひとは私だけで構わない。

 

そんな持論まで発生した。

どこか特別視しているような、あるいは病的に躁思考に偏っているような気がする。

 

できることなら、道を歩く時には私が存在することを謝りたいと心底思う。

わざわざ私のことを避けて歩いてくれるひとが1日の間にもどれだけいらっしゃることか。ただしそれはできることではないと分かりきっている。

 

この文章を読んでくださっている貴方に心底謝りたい。

貴重な時間をこんなくだらない文章に目を通すことに当てているなんてもったいない。

私が文章を作成しなければこんなことにはならなかった。ただし偏屈な自白に興味がないひとは読むわけがないことは分かりきっている。

 

 

世の中には謝罪を求める人が絶えないような気がする。

果たしてそれらは謝罪の言葉だけでよいと私は断じて思ったことがない。

「早く謝ってほしい」、謝るだけでよいのか。

「土下座しろ」、そうすることで満足されるならいくらでもいたしますが、本当に満たされますか。

 

私は保守的だ。

今までの少ない社会生活において、真意はまったくそうではないのに存在を否定されていると感じてばかりであった。

要するに打たれ弱い。それは何故か。

私がなすことはすべて完璧であると信じて疑わない節がまだまだあるからだ。

 

これだけやったのだから誰からも攻撃されることはないに決まっているとどこか思い込んでいる。

そんな状態への攻撃など、「でこピン」レベルで粉々になる。そこからは逆恨みが始まる。

 

私自身のことがとてつもなく嫌な奴に思えた。

だからといって自己嫌悪にさいなまれているかというと、そうでもない。

 

どこか他人事のように考えが流れている。