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理刹主義-躁鬱病と診断された女-

昭和生まれ、社会生活より閉鎖病棟生活の方が長い。病的被害者ではなく社会的加害者の自白。

対人“安堵”症

不安を不安と捉えない術を私なりに見出してきているかもしれない。

具体的には不安感をそのまま一度受け入れ、どのように不安か考察した上で放置する。

何ヶ月か前にはなかった、できなかった発想である。

 

今後、不安を放置することができなくなる時がくることも予測される。これも一種の不安だ。

しかしそれを考えたところでほぼ仕方がない。

 

今、私の気分とは比較的、比較せずとも、過去から信じがたいほどに自由になっているのだと思う。

これを常時あるものとすればとてもラクだ。

医師はこれを躁状態と呼ぶかもしれない。それでも問題は起きていない。

 

根拠となり得る事柄が、外で人々と接することである。

私自身、元気すぎるのではないかと自覚するとき、何とはなしに周囲のひとたちに直接聞いてみる。聞いてみることができる環境にある。

「にぎやかでいいよ」、「楽しいよ」などと言ってもらえる範疇であると安心することができる。

ただし時と場合は最低限わきまえることとする。

 

専門的に症状をすべて把握するわけではないが、俗にいう「対人恐怖症」とは真逆の症状なのではないかと感じた。

私は間違いなく、周りのひとたちに存在を与えていただいている。この上なく感謝しなければならない。感謝を忘れてはならない。

 

「恐怖」のみ端的に切り取って考えると対義語が見当たらない。

「恐れない状態」の反対を主観で探すなら「解放される」や「快楽を得る」、「安心」、「安堵する」といった雰囲気になる。

語呂がよいという理由のみで、既に存在するのかは別として「対人安堵症」という言葉にたどり着いた。

その事柄にとらわれている部分が強いため、何らかの症状であることをはっきりとは否定できない。