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理刹主義-躁鬱病と診断された女-

昭和生まれ、社会生活より閉鎖病棟生活の方が長い。病的被害者ではなく社会的加害者の自白。

悟りの心得に学ぶ

ハッキリと記述して、今の私は仏教そのものに興味はない。

仏壇に手を合わせることくらいはしなければならないのかもしれないが大層気まぐれであり、一般的な日本人のようにクリスマスにはワクワクするし、「断食」ダイエットといった語呂も嫌いではない。食物にもこだわりはない。

 

大事な点はどんなひとから、どのような精神状態のときにどのように話を聞くかなのだと思う。

 

悟りが何たるか、私の持つ語彙では表現ができない。

ごく一般的に「無心になる」などというイメージがあるかと思う。

人々は簡単にその言葉を使うが、どうやら無心になることなど人間には到底不可能であるらしい。

 

考えがある、欲があることはひととして当然のことであり、それが皆無になることなどあり得ない。

まずはこれを心得る。

 

そうすると、たとえば浮かんで来る考え(夕飯は何にしよう、あの時ああしていれば、明日のプレゼンが不安だ、等)をあるがままに放ったらかしにするのだそうだ。

私の考えはここにあるだけであり、すべては目に見える周囲の一部である、そうなってくる(のだそうだ。)

もっとすれば自我の存在はなく、周囲が自我そのものになるという。(意味が分からない)

 

不安を取り除きたい、悟りを知りたい、無心になりたい、さまざまな考えが巡るうちは、それらの考えにとらわれることになる。

とらわれていればいつまでも無心にはなれないし、悟ることはできないし、不安を取り除くことはできない。巡らせてはならない、放っておくことである。

 

何事かが不安であれば不安であるのだと認識してから「また不安感が来ているなぁ」などと思い放ったらかす。するとそう時間もかからないうちに割と「どうでもよい」となってくる。それがよいのではないかというのが私の解釈だ。

不安がなくなることなどない。

命がある以上、それがいつ、どのようについえるのかなど誰にも分からないのだから。

 

少し前の私は度々、いつどのように自害しようかという考えに病的にとらわれ続けていた。

近頃ではその考えそのものが「くだらない」とも思える。

 

 

叔父から話を聞いた時、私の中で何かが変わった。変わってきている。

 

彼は仏教徒でも何でもない。

特記することがあるとすれば、やや風変わりであるということくらいだ。

日常的に座禅をしているらしい。

口語化された叔父の悟りについての話は私にとってとても魅力的であり、私はそれを私自身の体験にしたいと望んだ。

今後自宅で座禅をしたり、近隣の寺院での座禅会などになら参加してみたいと思う。

 

40分間、足を組んで目を開けてただただ座る。(この時間は1本の線香が燃え尽きる時間であり、一炷[ちゅう]と数えるらしい)

この上なく贅沢な時間の使い方だとも思う。

 

たまには死ぬ考えのみにとらわれることもある。

しかしたまには、前向きにどうでもよい人生を過ごすことも悪くないと思えてきている。