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理刹主義-躁鬱病と診断された女-

昭和生まれ、社会生活より閉鎖病棟生活の方が長い。病的被害者ではなく社会的加害者の自白。

過ち去ってうつつに在り

年末年始にかけてまともに自宅にいることが久しぶりである。

体調を崩したり、強制入院したりすることが多かった。

 

冬場に弱いことは分かりきっている。

そこをある程度、事前に対処できるようにならなければ話にならない。

 

変調をきたす原因として、過去に交流があった友人知人との良くない思い出や出来事に関係することが多い気がしている。

なんとも小さく虚しいこだわりだ。

 

中には「あの頃はよかったなぁ」などとサラッと受け流せる事柄もある。

そうでない場合、私自身がその友人知人に深く執着しているのだと考えついた。

 

反して彼女らにとって、私はどうでもよい存在なのだ。

 

そのことを受け入れ、今ある場所で私なりの人間関係を保てばよいだけのことだ。

過去の私を否定されたところで、本来、現在に支障はないはずである。

それをどうにかして常時考えずとも構えられる、無意識にできるようになることが目標だ。

 

たとえば軽々しく浮かぶことを挙げるなら、彼女たちの実名を連ねた直筆の文書を遺し首を吊るというものがある。

私はあなた方を怨んでいる、そのことを命を投げながら伝えたところでどうなるのかという想像をする。

 

その想像自体に何ら意味がないことに気がつく。

 

なぜなら対象の反応を、私が確実に見られる保証がないからだ。

自殺未遂という行為が希薄になっている。

死ぬことを前提にするなら、どんな行いにも意味がない。

たとえ彼女たちの中のひとりにでも生涯に渡り何らかのダメージを与えることができたとしたところで、それに苦悩するその人物の状態を拝めないことでは意味がない。

以前に誰一人として苦悩などしないだろう。

 

 

「過ちが去る」と書いて「過去」になる。

すべて過ちなのだ。

 

過ちを積み重ね続けてようやく「現(うつつ)に在る」ことができる。

 

なんとなく、今まで私は過ちのみに苦しめられてきただけのような錯覚をする。

いくら過ちを償おうとしたらところで、償いたい対象との在る場所の違いによりその手段すら見当たらない。

うつつに苦しむ方が、生き物として魅力的なような気がする。