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理刹主義-躁鬱病と診断された女-

昭和生まれ、社会生活より閉鎖病棟生活の方が長い。病的被害者ではなく社会的加害者の自白。

悟りのはなし

親族の中に10年以上、日常的に座禅をしている者がいる。

彼自身が悟りを得ているわけでは決してないし、覚えたわけでもないと言っていたが、何やら野望があり、社会学的な観点から研究しているらしい。

その話が大変興味深かった。

 

既にお亡くなりになっている、とある風変わりな住職さんの話から始まった。

その住職さんは、話によると完全に悟りを開いていたらしい。

「野鳥や野生のタヌキなどに人間扱いされない」、「草木と会話をする」といった、私の言葉でたとえるなら「特殊能力」をお持ちだったそうだ。

そして集う人々のどのような悩みもたちまちに聞いてくださるという。

私は一度だけ、親族に連れられかの住職さんにお会いしに行ったことがある。

ただし体調がすぐれなく、最後までお話を聞けることはなかった。

精神の病気ということをどこまで具体的に伝えたのか分からない。

それでも、そういった類の悩みであれば、自分で治そうという気にならなければ治らない(戻らない)と後におっしゃっていたそうだ。

その手段のひとつとして、座禅で無心を探すこと、考えを放ったらかしにする時間を持つことは効果的であるらしい。

 

ひとことで座禅といっても数々の宗派がある。

当てはまるものや、限りなく真理に近いものを探し出すことは到底容易いことではない。

その中でほんの少し悟りを知る切っ掛けを得ることができれば楽しく生きることができるのではないかと私は考えた。

悟りとは、平たく表現すると無心になること、自身がなくなることだという。赤子帰りだともいっていた。

とてつもなく人間離れすることになるが、それが本来の姿であるらしい。

 

話を聞くうちに、私などのほとんど必要がない存在ならば出家をするのも悪くないのかとほんのり考え出すほどに興味深かった。

そう考えた後、人間臭く在る方が魅力的だなぁなどといったところに落ち着く。

 

私は悟りたいわけでも尼になりたいわけでもない。

しかし、医者に頼るのではない、胡散臭い話は胡散臭いと認識しながら、社会生活を営み、「ゆたかなこころ」を持てればよいのかと思う。

私という存在はここにたまたま「ある」だけで、今こうして機械を使って言語を打ち込んでいる風景もたまたま「見えている」ように感じるだけである。わけがわからなくなってきたが、理屈や言語が先に立つものではないというのだからしかたがない。

 

そもそもが仏教とは宗教ではないらしい。

では何なのかとしたところで、私の持つ言葉では説明ができない。

 

ただ、個人主義にこだわる私自身がとてつもなくどうでもよいと感じた。

 

ちなみに通夜に口語で聞いた、現代の日本においてもっともポピュラーな仏教の死生観の話に対しては、私は個人的に腹立たしくて仕方がなかった。