にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 躁うつ病(双極性障害)へ

理刹主義-躁鬱病と診断された女-

昭和生まれ、社会生活より閉鎖病棟生活の方が長い。病的被害者ではなく社会的加害者の自白。

理解の仮面

近頃ぼんやりと思う。

私は躁鬱病のなんたるか、双極性障害と称されI型、II型と分類されてからのなんたるかを真にほとんど理解していない。

だから排他する。

 

医師から言われること、インターネットで検索をすること、医学書を読むこと(図書館)、どれをとっても、いまいち、自分の言葉できちんと説明できるほどの理解がない。

だから偏屈になる。

 

ありふれた言葉ではあるが、私のことを一番理解していないのは私自身であることが浮き彫りになってきたように感じる。ようやくだ。

 

何から理解すればよいのだろうか。

 

まったく見当がつかない。

 

 

なんとなく浮かぶ設問を挙げる。

あなたは生きたいのか、生きたくないのか。(「死にたい」ではない)

 

どちらかというと生きたくない。

 

その理由を述べよ。

 

・・・・・。

 

 

理由も曖昧に生きたくないという状態は思春期頃からほぼ変わらない。

脳の発育が止まったのだろうか。脳とは衰えるものだ。

そこまで遡って自己分析をする必要はあるのだろうか。

 

また、心や精神についての概念に激しく疎い。

何度読んでも理解に苦しむ。

 

根は真面目だと言われることが多かった。

実際は生真面目、馬鹿正直といった表現の方が相応しい。

ただし素直とは違うのだろう。

 

素直になる、類義は正直になる、だろうか。

 

正直になるなら、たとえば私は鏡越しに見える私のことを常時ひどく憎く感じる。

不意に鏡が見えてしまった時に衝動で実際に鏡を割ったこともあったような気がする。

たとえば、生きたくないのではない、死にたいのではない、私を殺したいという表現がもっとも当てはまる。

 

自責の念にかられることなどは誰にでもおとずれることだと思う。

人々はそれらを四苦八苦して乗り越える。

おそらく私の場合、乗り越えずラクに抜け道をしようとして、しかもそれが賢明であると思い込み図に乗った挙句、抜け道が見つからず乗り越えるべき山の麓をどこまでも眺めている、それだけの存在のような気がする。

 

なんだか昔話にありそうなたとえだ。

 

ぼんやりとしたたとえ話は浮かぶのだ。

鮮明な視野が欲しい。

私には私が見えないとうたった哲学者や芸術家は史上、星の数ほどあっただろう。

どこかに糸口があるはずだ。しかしながら文化的な事物に触れることは私にとって激しい躁転の切っ掛けになることが多いためじゅうぶんな注意が必要である。

 

 

私は私をどうしたいのか、すべて私が決められる。

こう書くと誇大妄想のようにも取れる。

学生時代、特に倫理社会で取り上げられる思想家の授業があった時期など、この程度の定義ならばその時代に存在していれば私が導き出せていたと本気で思っていたこともある。

自信過剰にもほどがある。

 

 

時刻は26時を過ぎた。

考えを巡らせることに疲れてきた。実際は頭蓋骨に守られているのに、脳がむき出しになり凝り固まってチクチクと痛むような錯覚を起こす。

 

実は密かに、徹夜で躁転するのか実験しようかと考えていた。そう考える時点で軽く躁にあるととらえるのが妥当である。

しかしその実験も難しそうだ。