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理刹主義-躁鬱病と診断された女-

昭和生まれ、社会生活より閉鎖病棟生活の方が長い。病的被害者ではなく社会的加害者の自白。

時間的過労死ライン

昨今、労働基準法の範疇を越える労働時間を規制する風潮が目立つ。

働き方改革というやつのせいだ。

ある一定の時間までは残業をしてもよいとするもののように認識する。

そうなると、その一定の時間を1分1秒でも超えれば過労死するのか、1分1秒でも少なければ健康が保てるのかという押し問答が始まる。

 

実に不毛だ。

 

時間感覚に対し疲労感覚とは必ずしも比例するものではないことは分かりきっている。

いかに効率よく仕事や作業をこなすかに重きを置くこととなれば、いわゆる「優秀な人材」と反する「劣等な人材(という表現は聞いたことがないが、仮にこの表現を使う)」が上げられない効率を補うために時間を使うことは必然である。

誰にも見えるトリックとして、残業時間の制限の陰にはサービス残業、時間外労働が堂々と鎮座している。

 

個体差があるものを一定の基準に収めるためには物差しが必要だ。

目に見える物体であればことは容易い。

人間の持つ技能、特性、まとめて仕事力とは目に見えない。

 

たとえば8時間、集中力を限りなく持続させて働く人と、8時間を自由に働く人とでは明らかに前者の方が過労になる。

ただしこの時、両者は同等の仕事量をこなしていることとする。

適度な休息をとることは義務付けられているが、適度さにすら個人差は付きものだ。

また、働くことが好きな日本人には休憩時間にこそ率先して働くことに付加価値が持たれる現場も多い。

 

おそらくは小学生にも見えるであろう1つの答えとして、時間のみでは過労死を防ぐことは出来ないということがある。

 

しかしながら、時は金であるため、働くことをはかる物差しが現段階では時間しかないのだ。

 

過労死のニュースを耳にする度、それに対し憧れを抱くことは少なくなった。

国のために働くという概念が薄れたのかもしれない。

 

人類が本能で死を恐れていることを前提とし、自らの、主に集中力、体力、体調、気分を素直に把握できる健常者であれば、過労死など無縁であるはずだ。

 

そんな死に方より、急な震災の方がよほど恐怖である。