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理刹主義-躁鬱病と診断された女-

昭和生まれ、社会生活より閉鎖病棟生活の方が長い。病的被害者ではなく社会的加害者の自白。

人間関係の玉砕

10代後半から20代前半にかけて親密であった友人たちのグループがいくつかある。

 

彼女たちとは共通の趣味で知り合った。

そもそもが同窓生に共通の友人がいたことが大きなきっかけであり、年齢が近いこともあいまって特別に約束などをせずとも実存の共有スペースへ赴けば会うことが出来るようになっていった。

毎月のように会っては他愛ない話をしたり悩み事を打ち明けたり、記念写真を撮ったりと楽しく過ごし、その時間は当時の私にとってかけがえのないものであった。

インターネットや携帯電話が普及し始めた頃で、会えない時には頻繁にメールのやりとりなどもおこない、親睦は深まっていった。

 

とりわけ多感な時期を共有した仲間であったと認識している。

私が躁を発症するまでは。

 

彼女たちの中には鬱病、あるいは若くしてうつ状態を経験し乗り越えた者や、難病を隠しながら笑顔で振る舞う者、今でいう発達障害を持ちながら一般以上の勉学に励む者など、どことなく特殊なのか、実はそれが普通なのかもはや分かりかねる人間が何故か多くいた。

私が体調を崩したことが明白になった22歳の夏頃にはとても心配されたものだ。

精神科の閉鎖病棟宛に彼女たちからの寄せ書きがされたサイン色紙が送られてきたほどで、今にして思えばギャグである。

 

幾度となく、仲違いをすることもあった。

その度、それらを複数の人間で理解し合うために話し合い、そんな時、私は仲介役を担うことが多かった。

それでも、集団から離れていく人間も少なくなかった。存在を過大評価しなければ、私はその中の1人に過ぎない。

 

この友情は何歳になっても続くものであると信じて疑わなかった。

私の葬儀にはせめて彼女たちが来てくれるのだから淋しくはないと思い込んでいた。

 

何事にも変動はおとずれるのだと、今では分かる。

 

彼女たちは仲介役、自らの意見を制御し、双方を尊重することが出来ていた頃の私に出会っている。

そんな仲介役(仮)が、ある時突如として、自らの支離滅裂な意志を通すことしかしなくなり、周りを見下し始めたら、それは誰しも困惑する。

 

喧嘩腰にならず集団から抜けるという彼女たちからの要求を、誰がどう見ても喧嘩腰に承諾したことの自覚すら当時の私には皆無だった。

いつでも、その友情は取り戻せるものであると信じきっていた。

 

著しい気分障害とは、どれほど信頼関係がある間柄でもたやすく粉々に壊してくれるものなのだ。