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理刹主義-躁鬱病と診断された女-

昭和生まれ、社会生活より閉鎖病棟生活の方が長い。病的被害者ではなく社会的加害者の自白。

死した時間と人間

足先が冷え切っているように感じるため毛布をかけている。

反して手には汗をかいている。

なんとなく鼓動が激しいような気がする。

 

更年期障害の疑いからは逃れられない。

それにしては割と早期発症である。

 

 

今日は昨日に比べればかなり回復したものの身体が気だるく、反して思考が忙しい。

何か月も、軽躁軽躁詐欺なだけで、仮に確実に客観視することができたとしたら躁状態なのかもしれない。まずそんな視点を持つことは不可能であると開き直るあたりが怪しい。

 

そう考えるのとほぼ同時に、病状は出ていないとも思えている。

私は日本国家において働きもせずぐだぐだと金を貪ってきた非国民で、生き続けることが罪になると考える。ただし考えるだけだ。

ならば、と、スマートフォンに電源をつけている現状が罪に思えて来る。せめて部屋の電気はつけていないことに意味はあるのだろうか。

 

視力は悪い。しかしたまにかける眼鏡は格安店のもの1つであると主張したくなる。

 

何をこんなにも焦っているのだろうか。

なんだかくたびれる。

それでも思考は堂々巡りを続ける。

 

知り合いでもない誰かから気が違っていると指摘でもされたらラクなのではないかと思えてくる。

同時に現実そんなに甘くはないと目を見開く。

 

私は精神の病気であるが、どうやら本質的な自覚がないらしい。

これは数時間前の記述と反する。

なぜか今は自覚がないような気がする。

先ほどとはまるで違う。本当に、分単位秒単位で気分の波があることを今日は残したいと考えて電源を使っている。

物理的に動く意欲がないためいくらか安全であるとは思いたい。

 

いくら強気っぽく見える文書を構築したところで、死にたくなったらその時に、いつでも死ねばいいと思い込んでいる。

 

仮に時間が生き物だとしたら、死んだ時間、つまり過去に対しこんなにも苦痛を強いられるものなのだろうか。

病気ではなく、性格における範疇だ。

死んだ人間、つまりそのひとたちとの思い出に対し、何十年経っても私は苦痛しか見いだすことができていない。

 

だから周りのひとのために死んではいけないよ、などという啓発は以上のような気分屋の私に対してはハッキリと誤りである。