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理刹主義-躁鬱病と診断された女-

昭和生まれ、社会生活より閉鎖病棟生活の方が長い。病的被害者ではなく社会的加害者の自白。

追い風プラン

自転車に乗れるようになることは幼少期の大きなアビリティのひとつだ。

ルールを学び、手軽で快適な交通手段となる。

労力についての物理的な原理などは後になってから学ばされ、興味を深く持てばその分野を志すかもしれない。もっぱら少数派であろう。

私が興味を持った点は「風」との関係である。

以下は、とてつもなく、それっぽく書いているだけで中身のない話になることを了承いただきたい。

 

客観的な考察はこうなる。

大人には見えない大きなおばけが走り去るからではなく、気圧の差により風は発生する。

また、おそらく物理学的に無風の空間において、物体が一方向、多方面に動く時、物体と大気との間には摩擦が生じる。

その摩擦を、たとえば意思を持った物体がとらえたとしたら風と称される。

 

物体を主観に置き換えたときが面倒だ。

物体、改め人物が風を強く感じるときとは、おおかた向かい風のときでしかない。

向かい風の中、自転車に乗っていると果てしなく風を怨むことがある。いっそ逆から吹かないものかと切に願う。

そのくせ人物にとって有利な風、追い風には気づくことすら少なく、気づいたとしてもよほどの強風でない限り感謝も憎悪も抱かない。

人物にとって不利な向かい風に対しては過敏なのだ。

 

この現象は、感情や意志のあり方にまざまざと置き換えることができる。

個人に対して有利な環境や意見があるとき、個人はそれらに対して多くが「安心」という感情を抱くはずである。

しかし安心とは、もはや前提の環境となっている場合が多い。

反して「不安」のもととなる不利な言葉や否定的な意見は1つでも少なくしようと模索する。

その過程で、有利な環境に対し感謝するという発想はなかなか出てこない。あってもほとんどが一過性の幻想である。

 

私はこのところしばしば追い風を感じる。

感じることができるようになった。

よほど器の小さい人間であることは自覚した上で、少なくとも過去には向かい風しか感じることができなかった。

自転車に乗っているとき、追い風だとラクである。

ラクなことは生きる上でもおおかた魅力的である。しかし当然、ラクであることには気が付きにくい。

 

もしかしたら、常に追い風は吹いている。

それをかき消すほどに強い向かい風があったことは事実だ。

風そのものが止まることはありえない。

人と人との間には様々な差があるからだ。

今なら向かい風にも乗ることが出来る気がする。などと誇大妄想を広げずに、追い風を見つけてラクに乗ってみることも悪くないような気がする。