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理刹主義-躁鬱病と診断された女-

昭和生まれ、社会生活より閉鎖病棟生活の方が長い。病的被害者ではなく社会的加害者の自白。

曖昧さと発信

人前で話をすることは嫌いではない。

私にとってはある種、憧れの芝居であり、しかも大舞台だ。

過去、自らのプレゼンテーションは比較的得意であった。(自己PRとは異なる)

後先考えずに発信が進み過ぎる時期もあった。

限りなく無自覚に躁状態であると切り返しも早くなる。

思考にゼロか100しかないためである。

その時はその時でよい。

後になって、社交的にも内向的にも大変なことになるという危機感は最近になってようやく少し身に付いてきたように過信する。

 

しかし発言を控え、思考を反芻させ、言葉を選ぶことは、今の私にはかなりの労力や我慢が必要である。

ずっと黙っていて最後にとてつもない正論で決める方が格好がつき、信頼も持たれやすい。ずるい。

この辺りのさじ加減が、社会で問われる部分であろうことは分かる。

作業所ではあらゆるものが曖昧だと感じることが多い私は、何ヶ月にも渡って軽躁なのだろう。

 

社会は決して曖昧であってはならない。

そんな刷り込みを、かなり勘違いしていたのだと思う。

「だろう」「思う」などの表現はもっての外だ。

これは、会社間での特定の営業における掟、あるいは駆け引きなの「だろう」。

営業職に就いたことはないため分からない。

何にせよ郷に入っては郷に従うことが不可欠だ。私にはまだまだ仮面が足りない。

 

「出すぎた杭は打たれない」と云った人物がいた。

 

簡単にへし折られると「思う」。