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理刹主義-躁鬱病と診断された女-

昭和生まれ、社会生活より閉鎖病棟生活の方が長い。病的被害者ではなく社会的加害者の自白。

通常の抑制力

7年ほど診ていただいている、主治医の見解である。

どうやら、私はほぼ「通常の人」に近くなりつつあるらしい。

どれだけの誇大妄想があろうとも、希死念慮が根強くあろうとも、多かれ少なかれそれらは元来、18歳頃までに形成された心が持ち合わせているものであり、また、ストレスによる症状に過ぎないため無理に抑える必要はないという助言をいただいた。

ただし今は身体が比較的動ける時期であると思われるためなだけに、今後、どうしても動かなくなる時期はまた来るだろうとのこと。

「通常の人」に近いという自覚はほぼないが、「通常」を装えるようになってきたのはよい傾向かと捉えた。

装い続けられれば問題はない。

「異常」とみなされた部分は抑制が効かなかった部分であり、それを隠すことが出来るようになってきたため「通常(正常)に近い」と判断されたのだろう。

 

装っているのだ。

 

私はもしかしたら、真に初めて、日本社会における一般的な成人の心理を知ることができたような気がした。

現在、私は私自身の心(という観念は分からない、心は脳にあるものだと考える)に不便さを感じる。

私にとって「かなりの我慢」をし続けているからだ。

 しかしその「かなりの我慢」が、「通常」に近い一般的な常識だったのだということに初めて気付かされた。

「通常の人」はこれだけ、さらにはこれ以上の我慢をしながら生きているのだ。

そんなこともできない、気付きすらしなかった、なんと情けなく恥ずべき生き物なのだろうかと自分に呆れ果てた。

 

以前より、主治医の意見を鵜呑みにはしないよう心がけている。

これらは医師の意見をもとに、私が考察した内容だ。多少ねじれている可能性があることは承知している。

さらに考察を進めると、企業に勤めていた頃、日々、精神的にツライと表現するよりは、人格を壊されているといった感覚があった。

業務内容はそれまでに望んで来たものであったし、どれだけ罵られ、存在を否定されるような言葉をかけられてもツラくはなかった。

それは私の仕事の要領、技能があまりにも未熟であるためだということが明らかだったからだ。

そのうちに気分と思考が分裂し、良識を見失ったのだろう、と記すと、なかなか哲学的なように見える。

しかしこれでは前述の「心」と「脳」が別のものであることを裏付けてしまう。

納得がいかない。

本来別のものであるという一般論があることは認知している。ただ、それを真意も知ろうとせず使い分けることに抵抗がある。

忍耐力が一般より足りな過ぎた、と書くだけでことは済む。

企業から離れて10年近く、ゆるく、甘え、なんとなく呼吸をしてきた。

 

生きることの大半は抑制することなのだと、ほぼ、義務教育で身につくようなことを最近、実感した。