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理刹主義-躁鬱病と診断された女-

昭和生まれ、社会生活より閉鎖病棟生活の方が長い。病的被害者ではなく社会的加害者の自白。

隠し事

日毎、時間毎に気分の波が小刻みである。

少し前、ただひたすらに落ち着いていて、落ち着いていながら、高所から飛び降りる鮮明な幻覚のようなものが頭から離れなかった。

それが耐え難くなり横になり、天井を見ればそこから首を吊る幻想が浮かぶ。

落ち着いていたはずの鼓動も心なしか速くなっている気になる。

誰かと話す機会があればそれらは緩和される。

ほどほどに明るく落ち着いた自分を演じることができる。

そうかと思えば次の瞬間にはとことん気だるくユウウツになって動けなくなったりもする。

 

医師から、カウンセリングは必要ないだろうとされている。

家族の理解がじゅうにぶんにあるとみられているからだ。

また、カウンセリングというものは過去に二度受けたことがあるが、いずれも性に合わなかった。

現在はまた異なるかもしれない。

しかし敷居は高い。

 

さて。事実、同居の母とはよく細かに会話をする。

最近は病状と性格のことを細かに説明することが多い。

母は恐ろしいほどに寛大である。

寛大になったと表現する方が相応しいかもしれない。

しかしそんな母に対し、どうしても言えない事柄がある。

私自身の命の価値を見誤るような事柄だ。

それはつまり、今もっとも重くのしかかっている事柄であったりする。

死ぬかもしれない。自ら命を絶つことばかり考える。そんなことを生みの親に言えるほど、私の神経は図太くできていない。

死ぬべきだ、死のうと強く思い込む、そんな気持ちをどこかで発散できたら、あるいは常時降臨するものでなくなれば、いくらかラクなのではないかと考える。

常に頭の中に「死」があると結構つかれるものだ。

それを隠そうとするとなおさらである。

 

「普通の人」は常に死ぬことを考えてはいないのだろうか。

そうだとしたら、かなりうらやましい。

「何も考えない方がいい」という助言を頂戴したことがある。

何も考えないことができるのであれば、おそらくは、とっくに「普通の人」として生きることができているだろう。