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理刹主義-躁鬱病と診断された女-

昭和生まれ、社会生活より閉鎖病棟生活の方が長い。病的被害者ではなく社会的加害者の自白。

大切だった友人

友人が多かったか少なかったか、数だけでは分からない。

少なくとも私が誠実にお付き合いするのにはじゅうにぶんな数の人間と交流を持っていた。

現在よりはるかに多い。

 

中でも高校からの友人で、二十代中頃まで特に親しくしていただいていた女性がいた。

学校は違うが趣味が合い、感動を分かち合えるかけがえのない存在だった。

彼女は出会った頃、未成年の頃から意志をしっかり持ち、多岐に渡る人付き合いがうまく、だからこその悩みを抱えながらも自ら解決する能力に長けているように感じ取れる人物だった。

私は自分が彼女の「特別」ではないことを分かっていた。

分かっていながら、どこか特別でありたいと願っていた。

おそらく彼女の中で友人というものは分け隔てなく特別な存在だったのだと思う。

互いに就職し、私が仕事に没頭し過ぎた頃のことは「あいらが仕事に取られたような気がして寂しかった」などという言葉を、病床の文通で伝えてもらい涙したこともあった。

入退院を繰り返すようになり、その都度、彼女は仕事と家事の合間を縫ってたくさんの手紙を送ってくれていた。

 

十年来の友人ともなろう頃、私の病状は悪化していた。

彼女に対し横暴な内容のメール文書を送りつけたまま、再び入院することとなった。

入院中は毎日、そのことを後悔していた。

彼女から手紙が来ることはなくなっていた。

退院したら真っ先に謝ろうと強く誓い、療養する他なかった。

彼女は、おそらく何度も、私との「付き合い方」について検討してくれていたのだと思う。

それでも限界はおとずれていた。

 

退院後、すぐに詫びる連絡を入れた。

間も無く届いた返事にはこうあった。

 

「もう二度と会うことはないと思っていたのに、ありがとう」

 

胸のあたりがひどく冷たくなった。

十年以上、積み上げ、創り上げた関係も、短いメール文書であっけなく崩れ去る時代になったことと、彼女がいたく言葉を選んでいるような感覚が耐えられなかった。

選ばれた最終的な言葉は

「病気になってしまって、どう接すればよいのか分からなくなってしまった。ごめんね」

 

電話をかけることもしのばれた。

直接話せば、直接会えば、また、あの頃のようにと願う気持ちとは裏腹に、その後複数の友人で集まる機会には何度か恵まれたものの彼女から話しかけられることはなかった。

私から話しかけても彼女のぎこちない間合いと相槌に、もう無理をすることはないと諦めてしまった。

 

そんな風に離れていった友人は多くいる。

そんな風に、離れられるのが怖くて私が連絡を絶った友人はさらに多くいる。

私が気にするほど、気にされていないパターンもあるだろうことは自覚する。

それでも、現在において不自然な交流は避けたいという保守的な感情を持つようになった。

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