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理刹主義-躁鬱病と診断された女-

昭和生まれ、社会生活より閉鎖病棟生活の方が長い。病的被害者ではなく社会的加害者の自白。

躁判別の難しさ

私は、自分が「楽しい」と感じる時はおおかた躁状態なのだろうと判別している。

しかしすべての「楽しい」が躁かというと、おそらくそういうものでもない。「楽しい」にもいくらか種類がある。

客観的に見て、一般的な装いができていれば「病的な」躁ではないとしたい。

自分を客観視することほど難しいことは今の私にはない。

 

入院中、自分が楽しくなると周りは迷惑するのではないかと心配だった。

抑うつ状態が続くか、薬によって気だるさを与え、寝たまま物理的に動けないでいることがまだよいと考えていた。

極論、自分は楽しむことをしてはならないのだと戒めていた。

 

7〜8年前、「抑うつ状態(統合失調症の疑い)」という曖昧な診断をされてからしばらくは相応の投薬治療を受け、ある日、なんとなくとてつもなく元気になったと感じたことがあった。

精神病が完治したのだと思い込む他になかったが、それは精神科にお世話になるようになってから初めておとずれた激しい躁転だった。(精神科にかかる前から、環境が変わるたびに躁転することはあったと思われる)

当時の数々の奇行は思い出そうとするだけで命を断ちたくなる。

それほど醜く、極端なものだった。

 

そのようになってはならない、再び自覚のない躁状態におちいることだけは避けたいという思いが、戒めの裏付けである。

 

戒めたところで、の話である。

何を持てば一般的なのか、また、楽しむことそのものは一般的ではないのか、様々な矛盾に差し掛かる。

笑顔になってもいけないとすら考えていたものである。

そう考えることすら、一般からかけ離れた極端な発想であることには気がつかない。

楽しむこと、笑うこと、いずれも人間にはあってもよいことのはずである。

 

そもそも自己で判別できるならば医者はいらないのかもしれない。

病的な思考とそうでない思考の「識別」ができていないため、何かと自ら作る足枷に悩まされている。

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