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理刹主義-躁鬱病と診断された女-

昭和生まれ、社会生活より閉鎖病棟生活の方が長い。病的被害者ではなく社会的加害者の自白。

特別的な差別

希死念慮という言葉を知った。

自殺願望とは異なるらしい。

どちらかというと私が常時持ち合わせるのは希死念慮だ(著しく躁に転じている時は除く)。

死にたいというよりは死ななければならないと考える。

これは思春期(小学校高学年)頃から持ち合わせている。

どうやらそういった体質もあるとのこと。

一般にこの考えは常にあるものだと思っていた。

自分の価値観を世間に埋め込んで相対的な思考負担を同等のものだとする偏見から来ている。

一過性のものとして希死念慮を持つことは多いのだろう。

たとえばこれが慢性的なものではなくなったら、どれだけ生きやすいかを想像する。

想像したところで、次には自殺願望に繋がるのだろうと落ち込む。

分かっている。

自分が思うほど、自分には価値も存在感もないのだ。

おそらく自信過剰というものだ。

街中で他人とすれ違う時、出入り口が混雑している時、

間違いなく先を譲る。

「ごめんなさい」と声を出す。

「ここに存在してしまい」、「申し訳ありません」を意味している。

そうしたところで、人混みに紛れればゴミとなることに変わりはない。

 

先日、主治医に抑うつ状態をうったえたところ驚かれたような気がした。

何らかの気分障害ではあるだろうものの、フォースオピニオンも必要な時期かもしれない。

しかし精神科に長く通院して、いったいどうしたいのか、どうなりたいのか、どこまでが自我でどこからが障害なのか、

もはや分からない。

障害と呼ばれる範囲をなくそう、治したいと考えていた時期もある。

ほぼ同時に、それは差別的な意味を孕んでいるのではないかと考えた。

そう考える時点で差別である。

私が差別される分には構わない。

むしろいくらでも排除していただきたい。

基本的人権の在り方が叫ばれているように感じる昨今、旧憲法の社会を体験していない世代としては先人たちに死をもって償うしかないほどに「存在」の意義を見失っている。