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理刹主義-躁鬱病と診断された女-

昭和生まれ、社会生活より閉鎖病棟生活の方が長い。病的被害者ではなく社会的加害者の自白。

社会と命、疲労と結果

何ヶ月か前、テレビ番組で聞いた話である。

(私の場合、テレビは聞き流すもの)

 

疲労感がなくても実際身体は疲れているといった内容が流れていた。

過度な労働に対し疲労感が伴わないことは危険なのだそうだ。

 

事実、終電間際まで作業に没頭し帰宅後午前4時頃まで勉強、翌6時に起床、通勤片道1時間半という生活をしていた頃、疲労を感じることはなかった。

精一杯働いているという、勘違いしかない陶酔におちいっていたのだと思う。

食事を摂る時間も惜しかったため電車内で具合が悪くなることはしばしばだった。

元来要領が悪く、手を抜くということができない面倒な気質だ。

要領よく生きるコツはいまだに見出せない。

当時、「どんなグズでも治る本」という書籍を見つけ熟読しひとつひとつ実行していたが、そんな本を読む時点でそのグズは生涯治りようがない。

 

某大手広告企業の新入社員が過労自殺に追い込まれた事件は記憶に新しい。

彼女が「思い描いた」社会はそこにはなかったのだろう。

近い職種だったため共感とともに不謹慎ながら羨ましさがある。

私が勤めていたことは一昔前の話であり、命が健在する以上、今更時間を金で返せなどと取り立てたところで相手にされないことくらいは分かる。

だからこそ「尊い自殺」を風化させてはならない。

自分の命は自分で守るとはよくいわれる。

しかしそれは社会でではなく災害時の話だ。

 

私は、今なお自分の命よりも社会的評価に絶大な価値を感じるのだろう、と、実感させられる話題が身近にのぼったため思うところがたくさんあった。

 

何につけても開き直って命を安売りすることは極めて醜い。

それに気付きながら、醜く、惰力のみで生きていくであろうことがなんとなく見える。

あまり楽しそうではない。

 

そもそもが、成人してから社会に出ていた期間よりも精神科閉鎖病棟に隔離されていた期間の方が長い、割と珍しい種類の人間が首も手も口も指も出すような次元の話ではなかった。

 

命よりも大切な仕事は山ほどあるように見える。

そう見えてしまうことが病的なのだろう。