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理刹主義-躁鬱病と診断された女-

1986年生まれ。 2002年、精神科受診を余儀なくされる。 2008年、精神科閉鎖病棟入院(病名不明)。 2011年、躁うつ病と暫定。 2017年までの約10年間入退院を繰り返す。

同価値ではないモノ〜躁鬱病ブログ

この日も、私は精神科閉鎖病棟のベッドにいた。

意欲がなく、ただ横たわっていた。

ゆっくりとした大きな揺れに、不謹慎にも遊園地のアトラクションかのような錯覚を覚えた。

依然と動く気力もない。

同室のおばあさんが「こわいよぉー、こわいよぉー」とうろたえ出す。

廊下では師長さんが大声で「部屋から出ないで」と言いながら早足で歩いているようだった。

地震なのだとようやく認識した頃には電気が消えた。

 

全患者が狭い集会室、とでも表現すればよいのか、広めの部屋に集められ、その時、保護室に隔離されている人はいるのかと不安になった。

私もこの入院の時ではないが保護室にお世話になったことがある。

ベッドとトイレ(と書くには美し過ぎる、布団と排泄場)があり、いうまでもなく何も持ち込めない。

院内での自殺未遂によって隔離されたため、始めの数日は手足の拘束もされていた。

室内にドアノブのない不思議な部屋だった。

 

時間の頃は、ちょうど夕食の支度がなされていたのだろう、急な停電にどう対応してくださったのか疑問だ。

通常、全館ラジオ体操に使われるラジカセに非常用と思しき電池が入れられ、情報はそこからだった。

しかしながらイマイチ何処で何が起きているのか分からなかった。

電力は復旧しないまま消灯時間を迎えた。

 

夕食の米がしっかり炊けていなかったと愚痴のようなものをこぼし続ける何人かの患者に強い嫌悪を抱いたことをよく覚えている。

 

翌朝から、テレビ映像、音声から溢れすぎる情報を得ることになる。

この犠牲者の名前の中にもしかしたら大切な友人の名前があるのではないかと先の先まで想像したりもした。

そして死者、行方不明者は日に日に増えていくのだ、と、ほとんど他人事に感じだ。

病棟はあまりにも保護されていた。

 

公共広告機構など、憧れに憧れた企業の1つであったが、大衆は怒りのやりどころがなかったのだろう。

 

当事者にしか分かり得ない感情の1つ、それは天災に遭うことによって生じると思う。

遺された側の感情。

中高生やそこらの年齢で、変わり果てた故郷そのもの、その中にある様々な遺体のなれの果てが目に入りながら「避難所」へ向かわざるをえなかった青年たちは今、何を思うのだろう。

 

私はほとほと恵まれすぎている。

だから命の価値を見誤るのだ。