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理刹主義-躁鬱病と診断された女-

1986年生まれ。 2002年、精神科受診を余儀なくされる。 2008年、精神科閉鎖病棟入院(病名不明)。 2011年、躁うつ病と暫定。 2017年までの約10年間入退院を繰り返す。

夢という言葉にしがみつく日本人〜躁鬱病ブログ

躁っぽい 躁哲学

夢を持つ成人とは、もっとも現実を知っていなければならない。

現実を知っているから夢を抱くのかもしれない。

多くの事物を「夢」という言葉で片付けることは不適当で無責任であるからだ。

適当かつ責任能力があるからこそ、「I have a dream」という演説の言葉は有名である。

 

幼少期に抱く夢には悪意がないから美しい。

少年期に抱く夢には半ば強制させられる部分が出てくる。

誰もが子供の頃、将来の夢といった内容の設問や課題に取り組んだであろう。

その都度、現在においては非現実的な「夢」を語っていた人が大多数であると思う。

 

睡眠時に見る幻覚に似た症状のことも「夢」と書く。

何故だ。

ここは区別してもらいたい。

ゆめうつつ(夢現)という言葉がある。

夢なのか現実なのか分かりかねる状態のことだ。

私はしばしばこの状態におちいる。

だいたいが現実に知り合っている人間たちからさげすまれるものだ。

根本にその考えがあるからなのか、起きた時の動悸が激しい気がしてならない。

 

そして覚醒時に抱く先々の希望のことを、私は「野望」と表記する。

夢とは違う。不相応な、野暮な願望でしかない。

野望を抱くのはほぼ全て躁状態の時だ。

その状態が長く続けば続くほどに想像だけが広がり具体的な努力などしない。

 

どちらの「夢」にも翻弄されることには違いない。

 

日本の音楽文化における「夢」という題材が占める割合は大きいだろう。

一番は「愛」や「恋」だ。

私は音楽を好んで聴くことは少なくなった。

嫌気のさす言葉ワースト3が揃っている。

そこまで深く考えずとも、大衆はそれを受け入れる。

言葉の意味がわからなくても、そこに便利さがあれば使用するのだろう。

言葉遊びとでもとらえ、内に秘めておけばいい。

 

いつの時代も、日本語が崩れてきていると嘆く人は少なからずいる。

私もそれは痛感する。

痛感しつつ、崩れた言葉しか使うことが出来ないし、今更母国語を習う気もない。

その言葉自体に会話する相手との共有があればいいだけだ。

ただ、現代語にも日本語訳が必要になってくるかもしれない。

 

例)

げ き お こ ぷ ん ぷ ん ま る

ま こ と に い か ん で あ る

 

どちらが現代語で、近代的であるか分かりかねる例も出てくるだろう。

ある記事によると、歴史的随筆「枕草子」にも当時の言葉づかいから離れた言葉遊びがあったのだという。

 

まことにぷんぷんまる。