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理刹主義-躁鬱病と診断された女-

昭和生まれ、社会生活より閉鎖病棟生活の方が長い。病的被害者ではなく社会的加害者の自白。

三色の図工

小学校高学年の頃の担任の先生の話である。

彼は今の時代にして思うと完璧に近い過労教師であった。

児童1人1人と向き合う姿勢、授業内容の構成、課題の出し方、手書き学級広報の頻繁な発行、ご自身も学ぶということを忘れない観念、…

40人弱いたクラスの中で大層目立たない、かつ発言をしない児童であった私の最後の通知表には「5年生の終わり頃から元気がなくなってしまいましたね。卒業しても先生はいつでも季戸さんの先生です。何かあった時は相談してください。」といった内容が書かれていたことを覚えている。

事実、当時の周りより若干早い思春期をむかえ、ある時突然すべての物事を虚しいと感じ、自らの存在そのものを否定的にとらえるようになっていた。

 

自主学習ノートというものがあった。

算数ドリルや漢字の書き取りなどをすることが億劫だった私はたびたび世界の国々の複雑な国旗の絵を忠実に描きページを埋めていた。

その時にモナコインドネシアの国旗が資料集越しには見分けがつかず、疑問を加筆しておいた。

すると翌日、担任から昼休みに1人呼び出され、何かと思えば図書室に連れて行かれ、図鑑だかなんだかで一緒に調べたことがある。

とても嬉しかった。

 

高校時代、何度か、連絡してみたくなったこともある。

しかし何百人、何千人(という規模で収まるのか分からない)の教え子の中の1人に過ぎない身分とへりくだり、ご連絡差し上げたことはない。

何年か前に小学校教師になった仲の良かった同窓生の話によると、この先生とお会いし激励を受け、おそらく雑談程度に私の話題も出たという。

せ、先生……。

 

この先生の図工の授業が大好きであった。

たとえば写生の課題。

線画に使うものは黒い油性ペンのみと決められていた。

どれだけ慎重に、集中して物を見つめただろう。

当時の小学生は着色の際、原則として水彩絵の具を使う。

その時にも決まりがあった。

赤、青、黄の色の三原色+白しか使うことを許されなかったのだ。

皆大ブーイングである。

まず始め、先生は「この三色を使って“黒”を作ってください」とおっしゃる。

十年前後の人生経験上からですら、非現実的な課題に感じる。

ところがやってみると、これがとても面白いのだ。

三色を混ぜ、どれかというと緑に近い場合、赤を少量足す。

そして紫に近くなってしまったら黄を足す。茶っぽくなれば青を足す。

それが感覚で分かるようになる。

より理想的な黒になるまで繰り返す。

三原色で自分の黒を作ることが出来れば、他の色など魔法かのように自在に操れた。

そうして完成したクラスメイトの作品はどれもみな堂々と、生き生きとしているように感じた。

加法混色の仕組みを学ぶとともに、児童の独創的な作品を見いだすことに繋がっていたのだと思う。

 

中学に入ってもしばらくはこの三色+白ルールを勝手に適用していた。

緑や紫や橙、「黒」の原色を使いだしたのはいつだろう。覚えていない。

 

余計な色が入ると視界は濁っていく。

人格にも三原色があるとするならば、私はほとほと、欲張って色を使い過ぎたのだと思う。

人間から、また地球からは物理的に光は発せられない。

減法混色で生きる人は存在しても少ないだろう。

 

当時のクラスメイトが作った黒に同じ黒などひとつも存在しなかった。

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