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理刹主義-躁鬱病と診断された女-

1986年生まれ。 2002年、精神科受診を余儀なくされる。 2008年、精神科閉鎖病棟入院(病名不明)。 2011年、躁うつ病と暫定。 2017年までの約10年間入退院を繰り返す。

人間の不良品〜躁鬱病ブログ

タイトルは中学2年の時に書いた、人権作文のものだ。

周囲はもっぱら「いじめ」を題材にする中、私はそれを選ばなかった。

髪を赤色に染め、たまに原動機付自転車で校外を走り回っていた1人の先輩のことを指して皆、隠れて「不良」と言うのだ。

学年が違えば詳細なデータも回って来ない時代だ。

彼は明るく、ハツラツとしていて、尾崎豊が好きらしく放送委員では率先して曲を流し、顔立ちも整っていてどちらかというと女子からモテるタイプに見えた。

その程度しか知らない。

 

ある時、同じ部活動仲間でご両親が教師をなさっていた子(当時はそういう認識ではなかった)が、不良は嫌だとさげすみだした。

当時の私は自分の意思を口にすることができる生徒ではなかった。

何故かは断定しかねる。

ただ単純に、自分の言葉が今以上になかったのだと思う。

作文など大の苦手であった。

それでも、あげ足取りは健在だった。

最大の勇気をもってして、彼女に「不良とはどういう意味なのか」聞いてみた。

その回答が「人間の不良品って意味だよ」だったのだ。

今にして思えば答えになっていないが、中学生がたとえば親から教わって納得するにはじゅうぶんな言葉だったのだろう。

その言葉がずっと頭に残り、ない語彙の中で一生懸命考えた作文は大層内容の薄いものになった。

要は人間に不良品などあるのかということをうったえたかった。

 

今でも、病院で新聞などを読んで気にかかる言葉はやはり「優秀な人材」といった言葉だったりする。

何をもって優秀なのか。

誰がそれを決める権利を持つのか。

優秀な人材があるのだとすれば、劣等な人材はどうなるのか。

疑問は尽きない。

 

何らかの分野において抜きん出ていればそれを人々は優秀と呼ぶのだろう。

その分野が社会的に認められる頻度が高ければ高いほど優秀な人材として扱われる。

おそらく言葉自体に他意はない。

言葉を扱う側に絶大な問題を感じる。

それは私が劣等の塊であるからとしか考えられない。

私には何につけても社会という壁がある。

その壁は自ら作っているという自覚もほんのりある。

しかしSNSなどでの何気ない短文、「仕事疲れた」「明日仕事行きたくない」「働く奥さんだから…云々」それらは攻撃的かつ排他的にとらえることしかできなかった。

お仕事ができるなんて素晴らしいじゃないか。当てつけでしょうか。

そういったお門違いな感情を抱いていた。

ちょっとしたキッカケで、ほぼ実際の知人との繋がりしかなく、健全で現代におけるコミュニケーションツールとしては最適であったSNSはすべて退会した。

とてつもなくラクになった。

 

もちろん、中学時代の部活動仲間との繋がりもそこにあった。

現在の彼女から見れば、私は人間の不良品になるのかなぁ。