読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

理刹主義-躁鬱病と診断された女-

1986年生まれ。 2002年、精神科受診を余儀なくされる。 2008年、精神科閉鎖病棟入院(病名不明)。 2011年、躁うつ病と暫定。 2017年までの約10年間入退院を繰り返す。

逆説的自由〜躁鬱病ブログ

躁哲学

自由になりたいとは、誰もが年齢や環境に応じて抱く「夢」であると思う。

何のために素因数分解を学習し、そこに時間を費やすかなど、当時は分かり得ない場合が多いだろう。

自由に遊びたい、自由に買い物をしたい、自由に暮らしたい、自由に生きたい…

では、自由って何ですか。

 

たとえば、みんなで自由にバスケットボールをして遊んでいいですよと言われたとする。

自由に遊ぶ。

そこには既に縛りが生じている。

チーム分けに始まり、ボールを持ったまま3歩以上歩いてはいけない等のルールだ。

誰もがそれを暗黙に受け入れている。

それを守ってこそ初めて「自由で楽しいバスケットボールゲーム」が成立する。

そこに不自由を感じる参加者ははたして何人いるだろう。

決まりごとの上に自由は成り立つ。

成長するにつれ、その決まりごとが大袈裟になっていく。

校則、社訓社則、条例、法律。

 

ルールが及ばない部分には道徳的思考が付きまとう。

この辺りは極めてあいまいだ。

皆がやっているから、自分はやらないのか、

皆がやっているから、自分もやるのか。

 

ただ、偏屈な私は考え事に行き詰まると逆説的に処理する傾向がある。

そうすると自由とは足かせでもあることが見えてくる。

 

逆説的に捉える自由。

「自由に生きたい」というありそうな願望を出す。

これ以上に大変なことなどないと思うのだ。

まず、何処で暮らすのか。

おそらくは地球上に生きるのだろう。

どの大陸のどの辺りで、何をして、何を思い生きるのか、すべて自分で考え、決めなければならない。

そんな時、人類はおのずと「足かせ」が恋しくなるのではないだろうか。