読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

理刹主義-躁鬱病と診断された女-

1986年生まれ。 2002年、精神科受診を余儀なくされる。 2008年、精神科閉鎖病棟入院(病名不明)。 2011年、躁うつ病と暫定。 2017年までの約10年間入退院を繰り返す。

気は病から〜躁鬱病ブログ

そんな言葉は既にあるのかないのか知らない。

しかし「病は気から」以上に説得力を覚える。

 

たとえば余命宣告のある病に苛まれる。

すると些細な日常にどれだけの幸せを見出すことが出来るか。

その「余命」の中でどれだけ、自分、あるいは家族のために生きようとするか。

客観的にしか分からないものの、可哀想というより羨ましいと思える。

たいていの日本人が現段階で余命宣告は受けていないだろう。

不慮の事故、天災等に見舞われて命を落とすことは最も悔いが残るに違いない。

何処へ残るのかなんて死んでみないと分からない。

また、自ら命を絶つことに関しては別記したい。

 

我々には余命宣告がない。

 

どれだけ一生懸命生きようとしても当事者にしか最大級に分かり得ないものがある。

それが余命宣告によって生じる「気」であると思う。

 

私が現代において「病」とされている部分は直接的に命に関わるものではない。

だからダレる。

周りは慌てるな、頑張るなと言う。

この風潮も既に古いと感じる。

今だからこそ頑張って生きなければ掴めるものも掴めない。

そう考えるのは極めて躁的思考の私だ。

ユウウツな時でも頭は冴えわたっている。

鬱病の鬱と躁鬱病の鬱は全く違うものなのだと認識したのはついこの頃で、しかし実際、鬱病に似た鬱状態の時期も長く経験した。

見えない病だからこそ救われる。

私はどこまでも ズルイのだと思う。