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理刹主義-躁鬱病と診断された女-

昭和生まれ、社会生活より閉鎖病棟生活の方が長い。病的被害者ではなく社会的加害者の自白。

メンヘラ以上 精神鑑定未満

「メンヘラ」という言葉がある。

定義はいまいち分からない。

メンタルヘルス(精神の健康?)」が語源で、「メンヘル」と略され、人を指す「er」が付き「メンヘラー」、「メンヘラ」となった、らしいことにしておく。

友人の中にはこの言葉を嫌悪する鬱病の者もいた。

確かに馬鹿にされているような感覚があり気に食わない言葉ではある。

 

しかし一説によると、メンヘラとは精神障害者を指す言葉ではないらしい。

精神障害よりも程度は軽いとされ、おそらくは精神科にかかることは避けたいが自傷行為が密かな趣味であったり、「気を病んでいる」ことをアピールすることがストレス発散になったりする人のことを指す、らしい。

※「気を病む」の意味は理解できない。

 

 

私は自称メンヘラであった。

私自身には私自身が気に食わない代名詞を付けておくことが相応しいと考えていたためだ。

しかし諸説あろうが、メンヘラという言葉にあまりに多面的な意味合いがたるため、“実際の”メンヘラの方々に対して申し訳ないような気がしてきた。

現代ではふさわしくない表現とされる、「気狂い」が私に当てはまる形容詞なのだと思う。

 「基地外」などと当て字にされていることも見受けるが、やはり馬鹿にしているとしか思えない。

ただの言葉遊びだろうか。

 

「精神鑑定」というと一気に仰々しくなる。これは裁判用語になるのだろうか。

私はおそらくは正常とされる精神を持ち合わせていない。しかしそれは鑑定するまでもないことだ。

 

メンヘラ、気狂いと来てそれらの次に当たる言葉が見当たらないため精神鑑定対象者という言葉になった、間は何だろうか。

精神不安定者、精神異常者とでもしておこうか。

 

何にせよ、精神鑑定は私には必要ない。

法を犯せばその罪を償わなければならないことは理解している。

ただし自殺がそこに含まれるのか、含まれたところで償いようがないことに開き直っている。

鬱状態約2週間

なんとなく気分が上がってきている。

ひどく動けなかったのは2週間ほどだ。

(その中でも細かな波はあった)

このサイクルを繰り返すのか、なんとなく上がった状態でしばらく保つのか、さらに上がってしまうのか、いくらか先を予測して危機管理ができればよいと考える。

 

先々のことを私自身にとって都合の悪い方向に想像することは比較的得意だ。

何パターンか想像しておけば動けるのではないかと思い込むことはおそらく、悪いことではない。

 

主治医からは以前よりは良い方向へ向かっていると言われた。

以前がどれだけ悪かったのかと思わざるを得ない。

 

作業所の存在は私にとってとても偉大なものになった。

明日からまた継続できればと切に願う。

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趣味を持つことと金勘定

堂々と新しい趣味を持ちたい。

ただしそこに金銭は発生してはならない。

 

このことが堂々巡りしている。

 

切っ掛けは携帯電話料金の見直しと年単位での料金計算だった。

 

 

春先から密かに、底値に近いデジタルカメラが欲しいと考え始めていた。

「趣味:写真」というものに憧れを持つ。

衝動的になっては無理やり抑えつけ、また買いたくなっては金銭の計算をして非現実的なものだと思い込ませようとしてきた。

 

数年前ならばためらうことなく、あるいは衝動的に購入していたと思う。

近頃はたとえば360円の化粧品(消耗品であるはずなのに使用頻度が少ないため何年も保つ類)1つを買うことにも躊躇する。

 

なんと極端なことだろうか。

 

そもそも何故、趣味に金銭が発生してはならないのか。

 

せっかく趣味になったとしても周囲に隠さなければならないからだ。

それでは嫌だ。堂々と趣味を披露し、うまくすれば共有したい。

 

最低限文化的な生活がなんたるか、年金生活の身で省みることが多すぎるのではないか、趣味は文化とは異なるのか、様々な設問が次々と浮かぶ

 

きょうび携帯電話くらいは持っていないと何かと不便である。自宅に固定電話もない。

そのためこれは文化的な生活に必要なものと判断する。

パソコンは貰い物で、テレビやゲーム機能などはなくて構わない。

これからの時期、暖房器具はできれば壊れないであってもらいたい。

電子レンジ、冷蔵庫、洗濯機、照明器具、寝具、衣服、不足はない。

 

追いかけていくと、結局また、これなのだ。

 

 

「全国民の7割以上が所有している物とは何か」

 

 

 

最新のスマートフォンはカメラ機能が優れており、私が欲しかった、いわゆるコンパクトデジタルカメラの性能と素人目には遜色ないのだというではないか。

 

しかし果たして、私の現在の性格と身分に対して最新のスマートフォンが必要であるのか。

 

はっきりと、必要ではない。

 

つまりはっきりと、新たな趣味を堂々と持つことができない。

 

比較的深刻に落ち込んでいる。

理解の仮面

近頃ぼんやりと思う。

私は躁鬱病のなんたるか、双極性障害と称されI型、II型と分類されてからのなんたるかを真にほとんど理解していない。

だから排他する。

 

医師から言われること、インターネットで検索をすること、医学書を読むこと(図書館)、どれをとっても、いまいち、自分の言葉できちんと説明できるほどの理解がない。

だから偏屈になる。

 

ありふれた言葉ではあるが、私のことを一番理解していないのは私自身であることが浮き彫りになってきたように感じる。ようやくだ。

 

何から理解すればよいのだろうか。

 

まったく見当がつかない。

 

 

なんとなく浮かぶ設問を挙げる。

あなたは生きたいのか、生きたくないのか。(「死にたい」ではない)

 

どちらかというと生きたくない。

 

その理由を述べよ。

 

・・・・・。

 

 

理由も曖昧に生きたくないという状態は思春期頃からほぼ変わらない。

脳の発育が止まったのだろうか。脳とは衰えるものだ。

そこまで遡って自己分析をする必要はあるのだろうか。

 

また、心や精神についての概念に激しく疎い。

何度読んでも理解に苦しむ。

 

根は真面目だと言われることが多かった。

実際は生真面目、馬鹿正直といった表現の方が相応しい。

ただし素直とは違うのだろう。

 

素直になる、類義は正直になる、だろうか。

 

正直になるなら、たとえば私は鏡越しに見える私のことを常時ひどく憎く感じる。

不意に鏡が見えてしまった時に衝動で実際に鏡を割ったこともあったような気がする。

たとえば、生きたくないのではない、死にたいのではない、私を殺したいという表現がもっとも当てはまる。

 

自責の念にかられることなどは誰にでもおとずれることだと思う。

人々はそれらを四苦八苦して乗り越える。

おそらく私の場合、乗り越えずラクに抜け道をしようとして、しかもそれが賢明であると思い込み図に乗った挙句、抜け道が見つからず乗り越えるべき山の麓をどこまでも眺めている、それだけの存在のような気がする。

 

なんだか昔話にありそうなたとえだ。

 

ぼんやりとしたたとえ話は浮かぶのだ。

鮮明な視野が欲しい。

私には私が見えないとうたった哲学者や芸術家は史上、星の数ほどあっただろう。

どこかに糸口があるはずだ。しかしながら文化的な事物に触れることは私にとって激しい躁転の切っ掛けになることが多いためじゅうぶんな注意が必要である。

 

 

私は私をどうしたいのか、すべて私が決められる。

こう書くと誇大妄想のようにも取れる。

学生時代、特に倫理社会で取り上げられる思想家の授業があった時期など、この程度の定義ならばその時代に存在していれば私が導き出せていたと本気で思っていたこともある。

自信過剰にもほどがある。

 

 

時刻は26時を過ぎた。

考えを巡らせることに疲れてきた。実際は頭蓋骨に守られているのに、脳がむき出しになり凝り固まってチクチクと痛むような錯覚を起こす。

 

実は密かに、徹夜で躁転するのか実験しようかと考えていた。そう考える時点で軽く躁にあるととらえるのが妥当である。

しかしその実験も難しそうだ。

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継続は力なり

高校時代から長きに渡りお世話になったバイト先の店長の好きな言葉だ。

彼は今お元気にしてらっしゃるのか、ふと気になる時がある。

当時からうつ傾向があった私(厳密には躁鬱と思われる。躁の時の私が周りに映る私だった)のことを受け入れてくださる寛大な方であった。

 

私が精神科に入院したことなども風の噂で彼の耳には届いたようで、それを知った上で再び働く機会をくださったこともある。

恩は返せていない。

 

彼は大変話好きな人で知識も広くあった。

終業後にバックヤードで世間話をすることは日常で、彼の話から学んだことはたくさんある。

どのスタッフとも気さくに話してらっしゃり、当時のバイト仲間とは未だに交流があることは彼の人徳のお陰といっても過言ではない。

 

その中でも、よく若い学生たちに「継続は力なり」という言葉を諭していた。

彼は学生時代、野球部だったらしい。

毎日練習を積み重ねること、毎日業務をこなすことの大切さを教えてくださった。

 

その言葉をよくよく思い起こす。

何事も継続しなければ意味を持ってはくれないとは、そこから派生した私の意思だ。

あの頃は継続できた。

何故、今は、この何年もはできないのだろう。

できなくなってしまったのだろう。

あの頃の私に継続は当たり前だった。

何故、今は当たり前ができないのだろう。

あまりに不甲斐ない。

 

関連して、私自身の運動部時代のことも思い出す。

練習は盆正月を除いて毎日あった。

校内でもっともハードな部活動で、運動に不向きな私がどうして引退時期まで継続できたのか不思議でならない。

能力はなく、後輩より背番号は後だった。しかし毎日続けた。それが当たり前だった。

 

ある時の公式戦にて、私と同じポジションのスターティングメンバーが足を故障させてしまい出場できないという時があった。

誰が代わりに出るのか、私より能力が高い他のポジションの部員はいくらでもおり、皆が皆、練習の中で各ポジションの動きは完璧に把握していた。

それにも関わらず、顧問は私をスターティングメンバーに選んだのだ。

はなから私が出るわけがないと一番思っていたのは私以外他ならなかっただろう。

その判断に対して文句を言う部員もいなければ、後々いやがらせを受けることも一切なかった。

 

その試合でどう動いたか、勝敗すら記憶にない。

 

ただ、継続を認められたのだろうという事実だけが根強く残っている。

 

あの頃の私は、何処へ消滅したのだろうか。

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身体はウツ、思考は軽躁

日に日に動くことが億劫になってきている。

軽い(?)躁が何ヶ月も続いたことから、軽いウツ(?)が何ヶ月か続くことが予測される。

 

10分ほどの運動がつらい、ものごとに興味がまるでわかない、気力がない、座っていることにも疲れる、笑うことをしない、思考にもやがかかったように発言が鈍く、文章がまとまらない。

そして私の場合、風呂に入ることが1つの目安になることが多い。

風呂に入ることが出来ない、もしくは果てしなく億劫である場合、ウツ傾向なのかもしれないと思わざるをえない。

過去、何週間も風呂に入らなかったことはザラにある。

 

 

不意に強く思う。

これだから精神の病気を持っているモノは使えないのだ。

 

惰眠を貪り、水や大気を汚し、食い散らかすために年金を使い、生産性などまるでない。

人間ではない、人間であるはずがない、非人と扱ってほしい。そんな意思を伝える権利すらない。

邪魔だろう、存在しなければまだマシだろう、死のうか、死んでみせようか、どこぞにあるだろう、精神障害者を侮蔑する組織が。集まりが。そこに入り込んで派手に死んでやる。

 

何故か突如として喧嘩腰な考え方になる。

しかし今はその衝動もわかない。

 

どうして躁状態よりも鬱状態に対して周りが甘んじるのか、とてつもなく不思議でならない。

躁の方が危険だと思う。認知度の問題だろうか。

鬱状態では死ぬことも億劫というのが私の中での定説だ。

 

躁を抑えることよりウツで動けない方がマシだとは未だに考えるが、動かないなりに考えが次々浮かんでは消えていく。それらは具体的に発信できるものではないものの、何かと疲れされられるものだ。

 

なんだか、きっとこの半年ばかり、夢でも見ていたのだろうと思えてくる。

定説被害妄想

今朝、ついに起き上がることができず作業所に欠勤の連絡を入れた。

ここ1ヶ月ほど、不安定期(躁と鬱が混ざっていたらしい)から、当日連絡を入れて休むことが増えていた。

今朝は最大級に動けなかった。

しかし連絡を入れてから数十分も経たないうちに、おそらく被害妄想と称してよいかもしれない症状にみまわれた。

「これだから精神障害者は使えない」と言われる、思われているような気がしてならない。悔しさで泣けてくるほどに程度は強い。

実際の世論の声はそれだ。

そう思われたくないために、継続したいと強く考える。

果たしてこれは被害妄想なのか。

十段階で気分のある場所をたとえるなら、朝が2でその数十分後には7〜8へと変動した。(1が鬱状態に近く、10が躁状態に近いとする。)

今日は本来なら午後の作業参加は予定していない日だ。

それでも、午後だけでも参加すれば少しは被害妄想(現実との壁)を崩せるのではないかと考えた。また、利用者の方々と交流すれば気分は落ち着くのではないかという甘えも抱いた。

反面、過激な発言を控えることが難しいのではないか、また数十分で気分が変わり安定せず帰宅が困難になるのではないかという不安があった。

 

そういった事柄を職員の方に相談した上で参加するか否かを決めようと問い合わせたところ、どうやら今日に限っておいとまがないらしい。

折り返しの連絡も3時間以上待っている。

その間、やはりと表現してよいものか、気分は平坦になった。

どうでもよいのだろうと考える。

職員の方々もお忙しい。

1人の利用者に当てる時間などそう長くは取れない。その上私のものはくだらない妄想と分かりきった現実だけだ。

 

元来、B型支援というものは体調に合わせて利用してよい場所だ。むしろそのための場所である。

精神異常者とされる者の1人がわめいたところで世論は変わらない。

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失踪願望

迷惑をかける人間を最低限にとどめたい。

そのために、誰にも打ち明けることが出来ない。

打ち明ければ諭されることは安易に想像できる。下手をすれば病院送りである。

 

ふわふわと、なんとなく自殺の名所を探している。

案外近くにある。

夕刻になると、ふわふわが強くなる。

夜になると瞬時に思考が冴え渡る瞬間がある。

その時、そこへ出向きたくなる。

探さないでくださいをしたくなる。

 

なんとなく先延ばしにしている。

 

朝陽を浴びるとふわふわが少なくなってしまうからだ。

朝陽を待ち続ける。

ずっと朝ならまだましだ。

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私の何が悪いのか

存在することがなんとなく嫌だ。

私の何がいけないのか、悪いのか、具体的に知りたい。

過去のことが浮上する時、文化的な事物に対し苛つく時、すべて消したくなる。

そのすべてを消すためには、私の脳がなくなるしかないのだ。

 

これはウツではないと思う。

突発的に躁なのではないかと考える。

死にたい、今なら死ねる、そう考えるのは躁状態の時が多かった。

鬱状態では死のうとすることすら億劫だった。

 

もう、この言葉を使ってしまってもよい。

 

疲れた。

 

私の何が悪いのか、自分で考えても具体的ではなく解決策が見出せない。誰かに助けを求めても、助けを求められる誰かがいるのなら、それに頼るしかないというところまで突発的にやってきた。

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首吊り士の恩恵

ここ1週間以上、報道で必ず取り上げられる題材である。

 

ネット上で「死」をほのめかすことなど果てしなく安易だ。

「首吊り士」と名乗った男は実行に移した点にのみ、強いカリスマ性を感じる。

断片的でかつ作られた報道から真実を見いだすことは難しい。

思い切り勝手に情報を繋ぎ合わせると、彼は生活に困り果て、殺人を犯してまで金を強奪し自らが生き延びようとしただけである。顔を隠す必要などない、堂々とすればいい。

その手はずにインターネット上に溢れる、自らの命を安売りしなければ存在価値を見いだせないひとたちの中の9人が使われた。

十代半ばから二十代の女性、確実に自身より弱い立場の人間をターゲットとしていることに計画性を感じずにはいられない。

そこまでして、彼は生きたかったのだ。

私が生きることに追い込まれたら、果たして人を殺しそれを隠し通そうとするのだろうか。

 

被害に遭われた方々は死に急ぎたいのなら他に手段がいくらでもあったはずだ。

精神を病むという表現では真意をとらえかねるが、一般的にそういわれる症状にあった場合、実際は本当に死にたいのではない。

時間の経過か何らかの刺激があれば症状は緩和されるものだ。

私が自らを殺したい願望に突発的に堪え難くなったら、果たして「第二の首吊り士」を探し殺されに出向くだろうか。

死と真っ向から直面した時、初めて本能が逆らうものだ。

たとえばどれほど身体に有害な物質を入れたところで、身体はそれらを排除するために動く。

 

これが殺人だから明るみで大事になっている。

性的暴行や売春など、数え切れないほど揉み消されて、あるいは被害者の意思で隠されているに違いない。

 

昨今のインターネットでの人々の繋がりとは表現する言葉が見当たらないほど浅はかだ。

別の報道で聞いたところによると、実際には知らない人間たちとの繋がりに関して自身のことのみ特別視し、自分の持つ繋がりは大丈夫だと思い込む傾向が強いらしい。

何らかの心理的な分析があったが、いささか信じがたい。

私の子供は大丈夫だなどとは到底思えない自信がある。

 

死にたいと考える時間の期間が長く、間隔が短くなったような気がしたところで、倦怠に身をゆだねるしかないこの頃では感情が非人道的に流れているのをなんとなく感じる。

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