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理刹主義-躁鬱病と診断された女-

昭和生まれ、社会生活より閉鎖病棟生活の方が長い。病的被害者ではなく社会的加害者の自白。

私の何が悪いのか

存在することがなんとなく嫌だ。

私の何がいけないのか、悪いのか、具体的に知りたい。

過去のことが浮上する時、文化的な事物に対し苛つく時、すべて消したくなる。

そのすべてを消すためには、私の脳がなくなるしかないのだ。

 

これはウツではないと思う。

突発的に躁なのではないかと考える。

死にたい、今なら死ねる、そう考えるのは躁状態の時が多かった。

鬱状態では死のうとすることすら億劫だった。

 

もう、この言葉を使ってしまってもよい。

 

疲れた。

 

私の何が悪いのか、自分で考えても具体的ではなく解決策が見出せない。誰かに助けを求めても、助けを求められる誰かがいるのなら、それに頼るしかないというところまで突発的にやってきた。

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首吊り士の恩恵

ここ1週間以上、報道で必ず取り上げられる題材である。

 

ネット上で「死」をほのめかすことなど果てしなく安易だ。

「首吊り士」と名乗った男は実行に移した点にのみ、強いカリスマ性を感じる。

断片的でかつ作られた報道から真実を見いだすことは難しい。

思い切り勝手に情報を繋ぎ合わせると、彼は生活に困り果て、殺人を犯してまで金を強奪し自らが生き延びようとしただけである。顔を隠す必要などない、堂々とすればいい。

その手はずにインターネット上に溢れる、自らの命を安売りしなければ存在価値を見いだせないひとたちの中の9人が使われた。

十代半ばから二十代の女性、確実に自身より弱い立場の人間をターゲットとしていることに計画性を感じずにはいられない。

そこまでして、彼は生きたかったのだ。

私が生きることに追い込まれたら、果たして人を殺しそれを隠し通そうとするのだろうか。

 

被害に遭われた方々は死に急ぎたいのなら他に手段がいくらでもあったはずだ。

精神を病むという表現では真意をとらえかねるが、一般的にそういわれる症状にあった場合、実際は本当に死にたいのではない。

時間の経過か何らかの刺激があれば症状は緩和されるものだ。

私が自らを殺したい願望に突発的に堪え難くなったら、果たして「第二の首吊り士」を探し殺されに出向くだろうか。

死と真っ向から直面した時、初めて本能が逆らうものだ。

たとえばどれほど身体に有害な物質を入れたところで、身体はそれらを排除するために動く。

 

これが殺人だから明るみで大事になっている。

性的暴行や売春など、数え切れないほど揉み消されて、あるいは被害者の意思で隠されているに違いない。

 

昨今のインターネットでの人々の繋がりとは表現する言葉が見当たらないほど浅はかだ。

別の報道で聞いたところによると、実際には知らない人間たちとの繋がりに関して自身のことのみ特別視し、自分の持つ繋がりは大丈夫だと思い込む傾向が強いらしい。

何らかの心理的な分析があったが、いささか信じがたい。

私の子供は大丈夫だなどとは到底思えない自信がある。

 

死にたいと考える時間の期間が長く、間隔が短くなったような気がしたところで、倦怠に身をゆだねるしかないこの頃では感情が非人道的に流れているのをなんとなく感じる。

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怠け病の存在価値

私は、自身の精神病診断に甘えながら、精神病を軽蔑し、精神そのものが何物なのか理解しようともせず働かない愚か者だ。

 

怠け病とは一昔前にはよく耳にした。それを未だに信じて疑わない。

裏付けには親族に言われた言葉がある。

私は「休むことが得意」だと言われたことがある。

皮肉でしかないが、それは事実だ。

私は休むことに特化している。

誰がどんな診断や考察を巡らせたところで実際のところは本人の意思にゆだねられ、現在の有り様のみが評価される。

 

起きられないのではなく、起きないだけ。

動けないのではなく、動かないだけ。

気だるく感じるのは、気合が足りないためだ。

努力が足りないのにも関わらず具体的に何をすればよいのかも見当もつかないという思考しない肉塊でしかない。

 

無理矢理にでも存在する価値があるということを見出し主張したとする。

それを自信過剰と見なすなら、全人類が躁病であると確信する。

現代は精神病が安売りされているのだからそのくらい造作はないだろう。

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再会とウツ状態

外来診察にて、ウツ状態であると診断された。

いまいち実感がない。

 

確かに着替えも億劫で受付終了時間ギリギリまで自宅にこもり、部屋着のスエットのまま化粧もせず外出した。

近頃作業所へ通う足取りも重い。

 

不安定な状態で安定(物議をかもす表現)していた数週間が躁とウツが混ざっていた時期であったと取れるらしい。

今までは自覚もなくこの時期に入院することが多かった。

しかし実際のところ、周りが本当に迷惑する時間は短期間である。

 

過去に経験した明らかな鬱状態が私にとってあまりにも甚大なものであったためか、今の程度でウツといってしまってよいものなのか、受け入れられない。

こんな状態をウツと呼べるなら世の中ラク過ぎる。

身体は動かせるし周囲に興味がわく瞬間もある。

何より文書を打ち込める。

 

果たしてこれはウツ状態なのか。

 

鬱の程度の問題であることにすればよいかもしれない。

現在の私は極めて軽度のウツ状態だ。

この先、重篤になるのか躁転するのか、まったく読めないから不安であるだけだ。

 

時間が過ぎることをただ待てばよい。

 

帰りに病院の敷地内で10年ほど前とてもお世話になった看護師さんと通りすがりにお会いした。

当時22〜23歳という若さで半年以上入院していた患者は私だけで、彼女はおそらく母親世代に当たる方である。

保護室に隔離されそこから出なくて構わないと思い続けた、それこそ比較的ひどく鬱状態であった私に毎日、日勤終わりに会いに来てくださっていた。

 

今、B型支援に通っていると伝えられたことが嬉しかった。

何も変わらないと言えばそれはそれでよかったのかもしれないが、しかし来年ではなく、今年通所し出したことを初めて光栄に思った。

明日からまた継続しよう。

 

そう思える私はやはりウツ状態てはない。

これを「普通」にしたいだけだ。

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精神障害はツライのか

私個人としては、つらくないと思い込もうとしている。

ツライ人は本当にツライのだろうと思う。その方々を否定するわけではないことをはじめに断定する。

ただ、私はつらくない。

 

身体が痛むわけではない、物を食べられないわけではない、常時、呼吸が困難なわけではない。

 

何も不自由はない。

 

では、県から交付されている精神障害者保健福祉手帳は何のために存在するのか。

 

身分証明のためだ。ちょうど、返納させられた運転免許証の代わりだ。

 

私はどうかしていることは私がなんとなく把握している。なんとなくだ。

本当に困る時はこの先いくらでもおとずれる。

今がつらいのだとすれば、この先やっていけない。

どうかしている(気が触れている)とは、いくらか客観的な表現だ。
つらさとは、割と主観的になる。

 

どうやら不安定な状態が続いている。

主観が客観を求めすぎて不安定なのかもしれない。

どれだけあがこうとも、主観から客観視することなど到底不可能である。

早くに諦めて主観に正直に沿うことができれば、どれくらいのツラさがあるのか分かるのかもしれない。ただし私の主観がそれを望まない。

 

どのように不安定なのか。

声をあげて泣いては叫び、大声で笑っては泣き、しばらく黙り込んではまた涙を流すことを繰り返している。

つまり不安定な状態が継続し安定している。

程度がどうあれ、どんな人にもあることだと思う。

それをいちいち騒ぎ立てることなどくだらない。

私の感情論など取るに足りない。

 

厳密に表現するなら、「精神的につらい」という状態がどういう状態なのか分かりかねる。

数値化できればいい。自己申告ではなく誰もが客観視できる数値に。

この人は、このくらいつらいんだ、私はこの程度しかつらくない、といったことが分かるようになれば誤解も偏見も減っていくだろう。

痛みを数値化する技術が使われるようになってきたことを何年も前に聞いたことがある。

 

人工知能にはテレビをつけさせたり退屈しのぎの会話をさせている場合ではない。

私がどれほどつらくないのかを客観的に証明してみせていただきたいものだ。

死神など来ない

ここのところ不安定な状態が多々ある。

漠然と虚しいと感じることが多く、しかし単純に暗い気分なのではない。

突発的にいわゆる危険な行動を起こしたくなる。

具体的には赤信号の大通りに飛び込むことだ。

次の瞬間には、それでは致命傷を負う可能性があまり高くないと考える。

次には首を吊る具体的な方法を思い出す。

道を歩きながらその考えに対して涙が浮かぶこともしばしばだ。あまりに矛盾する。

外に出れば、目的地へたどり着けば気分は紛れる。

誤魔化しているとも表現できる。

こういう時は自宅にこもる方がよいのだろうか。決断しかねる。

 

何かの物語のような美しそうな表現をするなら、私は死神を心待ちにしているのだと思う。

 

しかし待っているだけでは死神はなかなかやって来ない。

ことを成そうとするときは得てしてそういうものである、自ら動かなければ状況は変わらない。

 

ひととはそういうものであろうが、私は周りと比べそれ以上に、他者からの評価に何事よりも重きを置く傾向が強いことが最近少し分かってきたような気がする。

評価されない行動に意味はない、評価されない自分に価値はない。

 

今この刹那、私はたった一度の命の終わりをとげたいと切望している。
もういくつか刹那を重ねると、おそらく死ぬことは誰からも評価されない無駄なことであると考えているであろうことがなんとなく想像できる。

 

しかしその刹那を重ねた時が来るまでの刹那が、今の私にはただあまりに長いだけの話だ。

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妄想正論を崩せ

何らかの作業をすることには偏った集中力が必要だ。

それは家事、趣味、仕事など、人それぞれである。

 

私の場合、就業時代にやっていたことが趣味として残っている。

普段は特別にその作業に勤しむことはない。

その手段を使って具体的な何かに取り組みたい時、恐ろしく時間の管理ができなくなる。

近頃は疲労感というものを身につけるようになったためまだましかもしれないが、提示されたスケジュールなど構いはしない、一刻も早く納得いく結果を得たくなる。

就業時代にはそれが身体に危険を及ぼすことを理解すらしていなかった。

現段階、このままではよくないと考えられるようにはなっている。しかし考えたところで休息するということを実行に移すことができないのではあまり意味がない。

 

冒険家や登山家などで、九死に一生を経て全快した後、探索を続ける方々が少なくない。

ちょうど、それらと似ているのではないかなどと陶酔することが過去にしばしばあった。

私は先々、できれば自らの過去の業種に就きたいと考えることがある。一から学び直し、再就職すれば今度こそうまくいくと強く思い込んでしまう。

 

そんな考えを巡らせると眠れなくなる。

あまりにも未熟な社会経験が相応以上の妄想となってのしかかる。

その社会経験がなければ精神の病気は発症しなかったかもしれない、この業種は私には危険であるという根本にたどり着く。

しかし思考は躁状態であるため、何事も私にとって都合のよいようにとらえる。つまり、その業種の社会経験が病気の早期発見に繋がったのだと正当化し始めるのだ。

 

一般に躁鬱病のひとは就業が長く継続できないことが多いと聞く。私はまるで典型である。

 

休息と発散のバランスをほどよく取らなければならないと切望する。

そして間違っていると思えるようになってきた自らの正論を粉砕したい。

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空ばかり見てどうする

おそらく被害妄想というやつだ。

 

今さら何を後ろめたく思おう。

 

 

実在する人、記憶の中の人、夢の中の人、すべてのひとから見下されている。

前から知っていた。今さら働く能力などないことを知っている。働いたとしても極めて劣等であることを知っている。

 

昨日からなぜだか知らないがよく涙が出る。

 

見下されると感じるのは、見上げるからだ。

見上げればいい、涙はこぼれないし夜の星も見えるかもしれない。昔誰かがうたっていたことだ。

ただし見上げる先の視線をまず現実的な範囲で定めなければならない。

 

見下されるとは、良い気がするものではない。

自尊心がだいぶくたびれたのだと思う。

 

私もいつかひとを見下すのだろうか。

そうではない、今でも人様を見下している。

最も下等な生物は私であると特別視して周りを見下している。

なんだか様子がおかしいということに気がついたものの、打破できる具体策が見当たらない。

真夜中の殺意

中途覚醒してから2時間近く寝付けない。

しばしばあることだ。

2時間は割と長い。つい、携帯に手を伸ばしてしまった。スマホ依存とも呼ぶべきだろうか。

 

夜の考え事は良くないとされる。

分かっているものの、考えようとしなくても考えはさまよい続けるものだ。

この考えに支配されなくなることが私の中での目指すひとつの治癒である。

 

今夜はとても犯罪的な考えがさまよっている。

ある特定の個人に対する深い憎悪から殺意が芽生えた。大声で「死ね」と叫び、暴れ散らしたいくらいだ。

昨年ならば何もかも気にせず実際に大声を上げていたことだと思う。

今夜はその辺りは抑えられるレベルにとどまる。

死んで(消えて)いただきたいものは実はその個人の実体ではない。私の思考の中にある個人の記憶なのだと最近は把握する。

 

他者を嫌悪することにはエネルギーが必要になる。

どうでもよいと思えるようになることが一番だ。

好意を持ってエネルギーを使うならまだしも、憎悪でエネルギーを使うことははなはだ愚かだ。好意が度を超えると憎悪に変わることもあることから、この反する単語は表裏一体であるとも呼べる。

 

六法全書の内容など知識として皆無に近い。

ただし、ひとがひとを殺めたときにはそこにどんな同情すべき理由があれ、その罪をつぐなわなければならないことははっきりと理解しているつもりだ。

精神鑑定という言葉はよく聞くが、それは私には当てはまらない。

やってはいけないことだと理解した上で遂行することは完全に罪であることを、私は理解している。

 

それでもなお、ある特定の個人を物理的に派手に傷つけ死にいたらしめたいと考える。

その考えは具体的な段取りにまでおよんでいる。

 

まったく、無駄なことだ。

 

それの存在に支配などはされない。

そう考えること自体が支配されていることになるのだと真に理解する瞬間がおとずれることを待つ。

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SNSへの対処

あることが切っ掛けでSNSをすべて退会したと記したことがある。

 

切っ掛けとは、主治医からの禁止令だ。

 

躁に転じる時、具体的で犯罪的な事柄を一気に発信してしまう可能性が高いかららしい。

間違っていない。

 

そのためウェブログに逃げるというあげあしを取っていて、知り合いの誰にも内緒にしている。

こちらもコメント投稿は表示されない設定を選んだ。

ハンドルネームも過去にまったく使ったことがない類である。

内容が過激になる時こそ表現に気を遣わなければならないと思いながらも極端な発信は続く。

特に犯罪的な事柄を想像し続けてしまう時に限り、自己の決断で固有名詞は使わないようにしてきたつもりだ。

 

見ず知らずの方とでも、見ず知らずの方とのやりとりでこそ、過去、危険なことが少なくなかった。

過去に利用していたSNSでは、ほとんどが長きに渡る実際の知り合いとの繋がりしかなかった。

現代において、私はどちらかというとアナログなひとである。

 

ごくたまに、Twitterなど(これは厳密にはSNSではない?)から情報を得たくなる。

そう考えるときはテンションが高いときが多いような気がする。

 Twitterを利用しなくなったことにより、なんとなく知り合いだった人間が一気に減ったということに最近気づいた。

個人的な連絡先を知ってはいても、具体的に連絡を取り合う間柄の人間はごくわずかだ。

なんだか淋しい。

この辺りはだいぶ現代人である。

 

昨日か一昨日の記事にある、10代中頃からの友人たちの動向がとても気になったりもする。

しかし今更どの面を下げて、インターネット上ではどんな文面を使って交流を持ちたいというのだろうか。

 

希望と諦めの差し引きがゼロになり、行動に移すことはない。

すべてのはけ口がこのウェブログになっているということを今一度ご了承願いたい。

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