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理刹主義-躁鬱病と診断された女-

昭和生まれ、社会生活より閉鎖病棟生活の方が長い。病的被害者ではなく社会的加害者の自白。

夏風邪

昨年くらいから、風邪をひきやすくなった。

一昨年までが異様だったのかもしれない。

運動部の活動に励んでいた中学時代よりそれまで、ほとんど風邪をひいた記憶がない。

 

4日ほど前に喉の違和感から始まり鼻詰まりの症状、現段階では咳が出始めた。身体は全体的に気だるい。

体温は36.8℃から37.3℃を行き来している。

おそらく一般的な風邪だろう。

 

これが、たとえば企業であったり、学校などであればまったく考えることなく通勤通学しているレベルだ。

気だるくても気分は悪くない。

しかしたとえば閉鎖病棟であれば隔離の対象となる。

現在の私がすべき所の判断がつかなかったため、電話で問い合わせてしまった。

結果として本日の作業所は休むこととなったが、本当なら軽度の風邪などで休みたくはない。

早く、体温が上がるなら上がり、下がるなら下がり、どちら付かずの状態から脱したい。

 

出発の準備は整えていたため、たまらなく退屈な1日になりそうだ。

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残業時間のこと

久しぶりに乱れた。

日数にすれば、久しぶりと表現しがたいかもしれないが、ここのところ割と穏やかに過ごしていた。

しかし残業時間の話題がのぼり、私自身勤めていた頃の実質労働時間について考えてしまったため気分が荒んでいる。

似た分野の仕事をしていた友人は、当時150時間以上などと計算していたが、私にとっては計算することが無駄に感じられ、数えたことがなかった。

自らの志望で就いた職に文句などなかった。

今にして考えれば、往復4時間弱の通勤にあてていた時間などは無駄だったとしかならない。

もっと職場付近に引っ越せばよかった。

残業時間は月90時間以上が続いていたと思われる。

たったそれだけのことだ。

平均睡眠時間は退職に追い込まれるまでの約2ヶ月では、3時間もなかっただろう。

 

まだまだやれたのだと理想を求める自分と、それは過信である上、なぜわざわざそんな職を選んだのかと根本を責める自分と、過去にすがることを恥じる自分が喧嘩している。

実際はさらに細かにゴチャゴチャと入り組んでいる。

そろそろ疲れた。

 

今日は帰り道、デパートやビルの非常階段をやたらと眺めた気がする。

あのビルは、人目につかない時間帯、裸足であればたやすく侵入できそうなフェンスの造りであった。防犯カメラがあったとしても警報機はなさそうだ。

 

今の現場はどうなっているのだろう。

答えのない分野、終わりのない分野、認知されにくい分野、

私は今からどこに向かいたいのだろうか。

 

今日はとても楽しかった。

涙が浮かぶほど、今の私は健康である。

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綺麗事では変わらない

清らかな報道がほとんどである。

かといって今更インターネットの「本音」を読みたいとも思わない。

なぜ、ニュースキャスターに身体障害を持つ人はいないのか。

なぜ、芸能人に重度の知的障害を持つ人はいないのか。なかなか公に現れないのか。

なぜ、精神障害を持つ人が社会進出することに対し否定的な世論が強いのか。

個人の意志は大衆の「良識」に流される。

清らかな発信は悪意のない本音によってかき消される。

私が発信する清らかではない事柄もまた、99%は否定的にとらえられていることだろう。

かねてより考えていたことがある。目に見えない障害の在り方だ。

それには身体的な病気や、個人の性格も含まれる。

目視できなければ受け入れることが難しい生き物が人なのだと思う。

だから、感情などという目に見えないものは二の次、三の次になり続ける。

報道されることは綺麗事であることを忘れてはならない。

それらを元に、考えなければならない。

現実と報道は異なることがこの国の常だ。

 

「あの子のことは好きじゃないから一緒に遊ばない」

「あいつの言動には腹が立つから無視しよう」

「あの人とは考えが合わないから仕事を共にするのは苦痛だ」

本来、日常には差別の芽が溢れている。

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本能ドア

心、精神が何物なのか、自分なりの定義を見出したい。

一般論ではない、教科書や参考書に載っていることではない、医師が説明する内容ではない、それらではどうも納得が出来ない。

厳密には心と精神も異なる物質かもしれない。

しかしその辺りはあまり気にならない。

 

結論は「心は脳内の何らかの物質がつかさどっている」という何とも面白みのないものになる。

 

前提として、私は目に見えるものごとを重んじる傾向が強い。

仮に、心の内訳として、感情、思考、精神があるとする。

どれも、専門的で高価な器具がなければ数値化されない。あっても極めて曖昧であることも予想される。

心という単語には、「開く」「閉じる」といった表現が付くことが多くある。

「心を開く」というと積極的な様子を表し、「心を閉ざす」というと消極的な様子が想像される。

では、開閉する分かりやすい物体は何か。

今、1つ挙げるなら「扉」だ。

扉にも様々なものがある。

「自動ドア」など日常に大層普及している。

心が自動的に開閉するとなると、なんとなく目に見えない脳内物質が自動的、あるいは本能的に作動するというように思えてくる。

だから何だと問われれば、それまででしかない半端な「思考」に過ぎなかった。

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人格肯定

性格、人格を不特定多数の人間に認めてもらいたいと強く思った。

今の私はおそらく躁状態に近く、しかし誇大妄想もない。

非人道的なことを考えるわけでもない。

「なんとなく元気で楽しい人(ただし少し抜けている)」であるだけのような気がする。

正直なところほぼ、理想的な人格にあたる。

これは、過大評価なのだろうか。

割と長い事、病気と診断されたままであると分からない上、どちらかにするならば消極的にとらえがちである。

第三者から評価されることこそが、この世において最も重要な生きがいに繋がるのだと思う。

自分は自分だと貫いたところで、その裏では他者の賛同や協力、賞賛がなければ事は成せない。

その求める規模が大きいとされるか小さいとされるか、これもまた他人が主観で決めるものだ。

私の求める規模、「性格を認められい」とは、たとえば思春期の少年少女が抱くもののように小さいのではないかと思う。

ここもさらに謙虚になるべきなのだろうか。

 

何もしなくても年月は流れ、年齢は重なる。

重なる毎に、一般的にその規模は大きくなり、基盤となる小さい規模の塊を見失いがちになるのだろう。

 

私は、実は、最近の私のことがあまり嫌いではない。

しかし「私だけが認める私」では不安定である。

たとえば明るく振る舞い過ぎたのではないかと不安になる。

受け入れられてると感じないこともない。

このまま継続することができれば、おそらく、私の望む規模の結果は感じることができる時が来ると前向きに信じたい。

 

そんなことを考えていたら涙が流れた。

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対人輪廻

また考えている。

私は、過去に私をさげすんだ人たちを強く憎んでいる。

憎み続けている。

その思考を無視することができない。

反して彼らの中ではキッチリと、私の存在など遠い過去のものになっていることに腹が立つ。

連絡先などはこちらからもかなり前に抹消したものの、怨みは残り続ける。

あの頃は楽しかった、などとは到底ならない。

どうなれば、おもしろいのか。

ひとえに、彼らに不幸になっていただきたい。

過去の携帯電話などのデータ、また、破棄していない郵便物などからその方々の個人情報は得ようとすれば得られる。

特定の人物に対して特定の殺意を抱き続けること、これは罪になるのだろうか。

出来れば生きながら苦しんでいただきたいため、本人に直接危害は与えない。

どのように苦しんでいただくか考える。

考え続けてしまう。

そのうちに、実行しそうな気がして怖いのだ。

 

私は私の人生、あるいは親族の人生を軽んじている自覚がある。

私が犯罪者になったところで何も困ることはない。

精神鑑定などいらない。弁護もいらない。

人が人を傷つけてはいけない決まりがあることは知っている。

その決まりを破れば、つぐなわなければならないことも知っている。

知っている上で、遂行したいと考え続ける。

犯罪以外の何でもない。

過去を過去だと感じることが出来るようになれば、おそらくは、このようなバカげた、くだらないとされる感情に負かされることも少なくなって行くと思いたい。

では、どうすれば過去を過去にすることができるのだろうか。

まったく見当がつかない。

どれだけ忘れようとも、彼らは私の中に根強く存在しているのだろう。

 

私は、過去の私と交流を持っていた人たちのことが大好きだ。

何処かで復縁を望み続けている。

その願望を諦めることができない。

彼らの中で私はキッチリと「精神異常者」として扱われ排除されたのだという事実が悲しい。

それまで以上に負担をかけてはならないと自ら連絡先を抹消したことを後悔し続けている。

あの頃は楽しかった、それだけのことでよいのだ。

どうすれば、それだけのことになるのか。

ひとえに、彼らに精神疾患への誤解めいたものを与えてしまったことを懺悔したい。

過去の携帯電話などのデータ、破棄していない郵便物などからその方々の個人情報はある程度知り得る。

私が傷付けた特定の個人に対して今更どんな顔をして弁明するか、これが大きな課題となる。

出来れば過去のあれこれは病状だったのだということを真に知ったうえで受け入れてもらいたい。

どのように説明するか考える。

考え続けても、たとえば表面上納得をいただいたところでひどく虚しい気がしてならない。

そのうちに、実行する気力など失せるのだ。

 

私は私の人生において、対人関係はうまくやってきた方だと自負している。

だから過去にすがるのだろう。

精神疾患への偏見がなくならないことは仕方がない。

離れて行く友人があることは当然のことだ。

ましてや付き合いが長ければ長かった友人ほど、私から離れたくなる心理も何となく読める。

自信過剰であること以外の何でもない。

過去を過去だと感じることが出来るようになれば、おそらくは、このような堂々巡りから抜け出せると思い込みたい。

では、どうすれば過去を過去にすることができるのだろうか。
まったく見当がつかない。
どれだけ忘れようとも、彼らは私の中に根強く存在し続けるのだろう。

まだ、考えている。

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ベルギー行こう

安楽死を目的に生きることが悪くないような気がした。

その過程で、おそらくとても重要な別の目的ではなく、目標に気がつくことがおおいに予想されるからだ。

片道だけで構わない、しかしプランとして出るものは2泊5日の旅、安くて10万円ほどからである。

なかなか非現実的な額だ。

私は生まれてこのかた、海外に出たことがない。

以前の企業で上司から、若いうちに海外に行くべきだと勧められたが残念ながら若いうちに閉鎖病棟へ入ってしまった。

だから、視野が狭いのだろう。

狭い視野からは、割と細かいものを見て来た気がする。

しかし長いようで短かった。

 

1人でいると気が触れているかのような状態におちいることは相変わらずで、それを軽く客観視している自分がいるかのような錯覚もある。

そういった時、合法的に死ぬ術を模索する。

今回はたまたま安楽死にたどり着いた。

 

スイスが有名であるが、様々な観点から、ベルギーに行ってみたい。

 

こう書くととても美しい、たとえば若い女性が抱く夢のような感じがする。

加筆する。

 

日本でマンションから飛び降りることよりベルギーで注射を打つことの方が非現実的であり、物理的にも遠い。

ありあまる想像力を短時間で大いに働かせ、人生で一度きりの「死」に向けて大きく駒を進めた気になっただけの話である。

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拝啓 今を存在することが苦痛な私

 

つい一刹那前の私は安定していました。

それは、事業所の方々との交流があるおかげです。

とても素敵な方々です。

どんな時も、私は環境には恵まれています。

夏がこんなに暑いことも久しぶりに知りました。

9年前の品川の夏とは違うとは思いますけど、今年は暑さをとても感じます。

 

私はひとつの括りとして、笑うために生き、生きるために笑うのだろうなぁと考えつき、ある人に話したことがあります。

あなたも知っている通り、私は表向きひょうきんです。

周りの人のことを笑わせることが好きです。

笑われることでも構いません。

誰かが笑ってくれること、一緒に笑うこと、それらが今は身近にあるように感じます。

どうか暑さ、その他諸々に負けず外に出て笑ってください。笑わせてください。

私にはあなたのことが見えません。

あなたはこの私を見て嘲笑するでしょう。

それでも、今の私は構いません。

あなたは一刹那後のあなたに微笑まれるよう、存在してください。

 

敬具

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陰口の善意

インターネットは嫌いだと過去に記した。

それでも、百科事典を引きに図書館へ足を運ぶより、パソコンやスマートフォンで検索をする方が一般的だ。

 

先ほど、不意に、生きたままの臓器提供が可能であれば何らかの行動を起こしたいと思いついた。

前提として臓器提供カードなるものは十何年も前から財布に入れ続け、親族の同意、署名ももらっている。定期的に確認もしている。

それでもテキパキと、指先は動いた。

 

諸説あるものの、海外では生きたままで眼球や他の「臓物」を移植手術に使うということが横行されているらしい。

また、国内でも闇とされる世界に入れば臓器売買など日常にあるとのことだ。

なかなか興味深い。

それらの入り口を探ることもまた、インターネットを利用する他にない。

これも既に一般的な話だが、より信憑性の高い情報を探し当てなければならない点が弊害だ。

 

ついでだったので「精神障害者  死ぬべき」という検索も実行した。

どうやらそういった精神状態にあった。

少しの時間で、あらゆる視点からの「真意」を読むことが出来た気がした。

おおまかに、死ぬ想像をする私の背中を勢いよく押してくださる文書や、気分を逆なでされるような表現が多くあった。

そうすると、不思議といくらか気分が安定したような気がした。

おそらく少しだけ、自らを客観視することができたのかもしれない。

 

このウェブログも含む、匿名のインターネットには一般的に責任能力がないとされているように感じる。

事件を起こす具体的な予告などを書くだけで警察沙汰になることは、表面化している件は少ないだろう。

しかしここにこそ、真意、本音があり余っていると、私は確信する。

面と向かって当人には言えない事柄を、堂々と吐き出しているのだ。

意見者の本心に他ならない。

現代の日本に、面と向かって本心を明かしてくれる人種がどれだけいるだろう。

インターネットが普及するより以前、私は陰口というものが嫌いであった。

歳月が経つにつれ、それを否定することに疲れた。

この文書も立派な陰口であることにもはや負担もなく麻痺している。

 

インターネットは嫌いだ。

ただ、やはりとてつもなく便利な本音が置いてある場所である。

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妄想や幻覚ではないらしい

線路に入る

高所から落ちる

首を吊る

胸を包丁で刺す

などの図、または映像が鮮明に浮かぶことがある。浮かび続けることがある。一度も浮かばない日はここ何年も、ほぼないような気がする。

これらは一体何だ。

そうしなければならないような気になる。

そしていずれかを実行した後の自分が英雄かのように感じる。割と疲れる。

 

よく思い出すと、主治医からは強迫性症状だと言われたことが何度かある。

浮かんで来ることを我慢することはない、と、文字列のみからでは誤解が生じそうなことを言われたことも何度かある。

 

より強く、今にも飛び降りそうになるのは、決まって休みの前の日だ。

疲れていることは自覚できるようになったかもしれない。

やはり、何らかの発散方法を見出したい。

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