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理刹主義-躁鬱病と診断された女-

昭和生まれ、社会生活より閉鎖病棟生活の方が長い。病的被害者ではなく社会的加害者の自白。

頭を打ち付けること

高校の頃からだと記憶する。

思考がまとまらない時、発信が思わしくない時、苛立った時など、自発的に思い切り床や壁に頭を打ち付けることがあった。

学校、病院、自宅、親族宅と、場所を選ばなかった。

周りから見れば奇怪な行為だ。

しばしば、それを自重してきた。

自重できるようになったのだと過信してきた。

昨日、思いがけず自宅の扉に頭をぶつけた。

一過性の痛みとともに、強烈な爽快感があった。

過去、頭を打ち付けることによってすっきりしてきたことを思い出してしまった。

出来ればなるべく硬い壁がいい。

コンクリートが望ましかった。

1人でいる時なら、何らかの発散方法としてまた利用するかもしれない。

殺傷願望

眠いところを食後3時間までは寝ないと我慢しているからなのか

歩きすぎて足が筋肉痛だからなのか

タバコの数を気にしているからなのか

肌荒れが一向に治らないからなのか

近隣住宅の生活音が気になるからなのか

予測変換が上手くいかないからなのか

大声など抑えられると過信しているからなのか

 

理由は分からない。

ただ、変わりたい、変えたい、戻したいだけ。

夜になるとたびたび、包丁で自分の胸を刺す錯覚を起こしたり、知っていた誰かを明白に殺す場面を想像することがある。

割と堪え難い。

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金と時間、時事と想像

物騒な報道が続き、何日も新聞を買うことが出来ずにいる。

1人でいるときはテレビをつけない。

図書館の本を熱心に読むことにも飽きてしまう。

最低限の家事が終わればやることは何もない。

身体を動かすことも、何時間も続けられるものではない。

そうすると不安しか残らない。

近いうちに再び世界大戦でも起こるのではないかという不安と希望がある。

どうやら世の中、女子供は死んではいけないが男は死んでもいいらしい。

昨今の報道は、私にはそのように読み取れる。

私のような「死にたがり」は、いざという時こそ生き残ってしまうことがセオリーだ。

セオリーに反したいと思えば思うほど、物事はそれに準じて進む。

社会に出たいという希望があった。

それが叶えば、存在することに後ろめたさを感じなくなるのではないかと想像したからだ。

実際のところ、就労支援事業所の利用手続きは順調に進めている。

それにも関わらず、社会に出たところで、あるいは現在の生活を続けたところで、不安や不満がつのり続けることには変わりはないのだろうとようやく気がついた。

いくら、非現実的な想像(妄想)をしたところで、結局は私はそれが現実ではないことを認識することができる。

本当に認識することが困難な人も存在する。

そういった点から、私は極めて「半端」なのだ。

相変わらず、娯楽にあてる費用の見当もつかない。

今はそれが不満でもある。

しかし大戦でも起きたらどうだろう。

私のような「半端」者は保護されることはないと思うのだ。

裕福になった国家だからこそ生じた「甘え」こそが私どもの存在で、今日生きるか死ぬかという国家に戻ればそんなものはもみ消されるに違いない。

我が国の大多数の国民は「自分が戦争に巻き込まれることはない」と考えていると思う。

しかし事はそれでは済まされないところまで迫っている。

 

……そんな「想像」が尽きない。

今しかない世代

その世代ごとにしか出来ないことがある。

十代の悩みは二十代になれば浅はかに感じられ、

二十代の悩みは三十代になれば小さくなり、

三十代の悩みは…

と、歳を重ねるごとにおおらかになっていくのが人間、世の常であると思う。

もちろん、肉体的に最も充実した期間は一般に十代後半から二十代前半であるだろう。

私は今年31になった。

さすがに今から、たとえばフルマラソンを走るほどの体力をつけようとは思わない。

ただ、三十代は今しかない。始まったばかりだ。

周りの友人が二十代のうちにやってきたこと、うらめしく感じたことなどは、今から挑戦してもおおかた遅くはない。

遅くはないと言い聞かせ、先週あたりから気が向いた日にはコンビニで新聞を買っている。

月購読するまでにはまだいたらない。

2、3日かけて1日分の情報を得る。

今はそれでじゅうぶんで、そこから始まる。

読み物をしたいならば、古本を買ったり、図書館に通った方がよほど経済的だ。

しかし感受性が高い(と書くと響きはよい)ためにどんなジャンルの書物も読むことは苦痛でしかない。

それでも字は読みたい。

そんなわけで新聞である。

図書館にも新聞は置いてある。

しかし自分のペースで…と、どんどん言い訳がましくなる。

あと、近頃は1日に3、4回、ラジオ体操をしている。

ほとんど、何時代の日本人だか分からなくなってきた。

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「自殺島」を自殺未遂してた奴が読んだ

題名の気になる漫画本をいくつも手にしては、1巻と4〜5巻辺りのあらすじを見た上で読むことをしないものが多い私に、この作品は1巻の時点、書くなればタイトルのみで気になる存在だった。

 

自殺島 1 (ジェッツコミックス)

自殺島 1 (ジェッツコミックス)

 

 

いわゆる「ネタバレ」なしで綴ろうとすると、

「『自殺島』とは、自殺未遂を繰り返す常習者が島流しにされる場所」だという。

しかもそれは政府が自殺未遂者たちに当てる更正資金や、医療機関にまわす財産が無駄である(実際の書かれ方のニュアンスは少し異なる)として、「生きる義務」を放棄した未遂者たちが「生きる権利」を切り捨てられるという形になる。

 

現在の私にとっても大層生々しい。

気に入った作品は読み進めるうちに過剰にのめり込み洗脳されかけるため、時間の関係もあいまって4巻で引き上げ、自宅で最終巻までのあらすじを探した。

実質、4〜5巻くらいまでで私にはちょうどよかった。

これは巻末表紙をみれば分かる範囲であり、各巻のまとめが「サバイバル生活」主体になっていく。

そういった類で考えると、「7SEEDS」に衝撃を受け過ぎた私にはふさわしくない上、サバイバルのいろはを知りたいわけではない。

 

7SEEDS 1  フラワーコミックス

7SEEDS 1 フラワーコミックス

 

こちらの作品は完全にSFで、人類が絶滅した未来において子孫を残すためだけに生きる若者たちの壮絶なサバイバルが題材となっている。

たまたま友人宅で読みのめり込み過ぎたものの、本が進むにつれ色恋が多くなったため現在保留中だ。

 

話を「自殺島」に戻す。

 

私がもっとも汲み取った点は、ひとりひとり、自殺の理由は異なるという点だ。

わたしの答えはあなたの答えではない。

たまたま、最近よく考えていた。

題材は違うものの、よくこのタイミングでこの本を…という気分になる。

私にはファンタジーや学園ドラマ、恋愛が主な題材のものを毛嫌いする傾向がある。

そういった点からすれば、この作品は非現実的なように感じられつつも私にとってはじゅうぶんに現実的で、ぼんやり読んでいては自分が死ぬというような錯覚に陥る、刺激的なものだった。

存在することの後ろめたさをなくそう、という少しだけ出て来た杭を打ちのめされた感覚はある。

しかし杭はまた出せばいい。(芽ではない)

ヴィジュアル系の呪縛

小学校高学年頃から、上に兄弟がいるわけでもないのにバンド構成の音楽が好きになった。

当時バンドブームで、「ヴィジュアル系」という言葉が生まれ、売れたのもこの頃からだ。

私の周りには私が特別に好きなバンドを理解してくれる友人がいなかった。

ひとつ、特別に贔屓して聴き込むバンドがあった。そのバンドがたまたま「ヴィジュアル系」という部類に入っていた。

そのバンドのコンサートにはいまだに、たまに足を運んでいる。頻度については激減させ、現在の悩みどころである。

学生の頃はアルバイト代で遠くまでコンサートを観に行き、熱狂することが「生きがい」だったように思う。

当時からの知り合いが知れば、あいらはまーだそんなのを聞いているのかと呆れることだろう。

 

この類の音楽を好む、特に少女には「不真面目」という偏見が持たれがちである。

誤解のないように書くと、高校生になってからできた音楽の趣味が合う友人たちは真面目に勉強をし、当然のことだが学校に通い、現在の社会的役職で挙げるなら医師、デザイナー、システムエンジニア、店長職など、様々な職を立派にこなされている人がほとんどだ。

中にはそういった偏見を毛嫌いして自分はそう思われたくないから日常生活をきっちりすると豪語する子もいた。

つまり音楽の趣味で人間性を否定することは太古の風習であるということを書きたい。

 

話を戻すと、私は未だに二十年以上前から十数年前の音楽を聞くことがある。

自分にとって新しい音楽を取り入れることがもはや億劫であったりする。

それでも、いわゆる「ヴィジュアル系」をほんの少しでも目にしたり耳にしたりすると血が騒ぐ。

黒、赤、白を基調とした衣装を身にまとい、髪の毛はほぼ逆立てられる。非日常的な化粧がほどこされ、十字架やドクロ、血糊を使った小物から独特で毒々しく排他的な「ヴィジュアル」の表現、音楽性は多岐にわたるが、題材は「死」や「性」、「異常」、「孤独感」で思春期の少年少女をターゲットにしたものが多い。

子を持つ親だったなら、それだけで聞かせたくないジャンルになるだろう。

 

高校から卒業する年頃になると、ほぼ付き合いで観に行くコンサートも自然と増えた。

その中にあったバンドのひとつ、当時は正直あまり好きではなかった部類のものが、入院中ずっと頭の中を流れていた。

その曲もすべてが好きなわけではない。

名のあるバンドではなかったので、CDの出回りも少ない。

当時はカセットテープに録音してもらったものを聞いていた。

そんなちょっとした曲が頭を離れなかったので、iTunesで探したものの、発信はなかった。

そこでようやく思い立ち、YouTubeで検索をしてみた。

すると、あったのだ。

ずっと、もはや聞きたいという願望になっていた曲たちがたくさん、結果に反映された。

その中の1曲を耳にした時、涙が出た。

曲調は異様に速く、とても涙するような歌詞にはとらえがたいものである。

 

諸説あるものの、このバンドの作詞者は若くしてこの世を去ったという事実をずいぶん後になってから知った。

彼は、実際のところ何を伝えたくて叫び続けたのか。

不必要に美化してしまう。

 

死ぬ気になれば何でもできると

人は言うけれど

死に方しか考えられない

 

そう、歌い叫んでいる。

高校演劇への未練と自殺未遂

公立の中では進学校と呼ばれる高校に入学して間もなく、演劇部へ入部した。

当時の、人前に立つことが大の苦手で自分の発言がない私からすれば考えられない暴挙だった。

結果的に何も残さず2年の夏に退部することになったが、後悔だけが今でも残り続ける。

今朝方、その夢をみた。

現在でも鮮明に当時の部員や卒業生のことを覚えているものだ。

ひどくいたたまれない。

 

入部の切っ掛けは、「引っ込み思案な自分を変えたい」という思春期にありがちな純な動機だった。

この点のみに着目すれば、すべてうまくいっていた。

人前で自分を表現することが快感となったことは今でも忘れられない。

ある種、躁転だったのだと思う。

勉学は疎かになり、部活動のためだけに通学するようになった。

退部の要因は「自殺未遂」だ。

現代におければ、「頑張り方が分からない」、「どう頑張ればよいのか分からない」、「他者から見て頑張りが足りないという自分のことが許せない」といった考えには立派な弁護が成立するだろう。

当時の高校生にはギリギリ、それがなかった。

 

自分で記載するのは気恥ずかしいものの、私はいわゆる「キャスト」に専念していた。

台本を覚えるのも比較的早く、どうでもよいような小道具を用意することが得意だった。

一般と比べればおそらく大きいけれど、声量は部員の中では一番なかった。

それでも大役を頂戴し、自分は演劇だけをやっていればよいと思い込み、高校レベルならではの陳腐な役作りに没頭する日々が続いた。

 

ある時からである。

全体的に「なんとなく」でやってきた部員たちに対し、発言力の高い部員から毎日のように叱咤が入るようになった。

当然のことだ。

どんな部活動にもチームワークというものは必要であるが、演劇という分野はそれが特に繊細だった。

「引っ込み思案な自分を変え」ることはできてきていたが、私にはまだまだ発言力と意思が足りなかった。

 

地区大会に向けての新しい台本が決まり、役割も与えられた。

主人公はピアノを弾く。

私は音楽がからっきし苦手でピアノなど触ったことがないに等しい。

さあ、頑張ろうと思った時だ。

何をどう頑張ればよいのかさっぱり分からなくなった。

台本をどれだけ見ても身が入らない。

明日には「読み合わせ」で全部員が顔を合わせる。

 

明日、目が覚めなければよいと考えた。

 

 

 

 

退部してからの生活は部活動のみの生活以上に、比べ物にならないほどに酷いものとなった。

授業では何を言っているのか当たり前のように理解できない。

周りはそろそろ大学へ向けての進路を考え始める中で、名門と呼ばれる大学の名前すらまったく知らない上、興味もわかない。

人間関係は割と良好なままだったにも関わらず、自然と学校へ通う頻度は減った。

誰1人化粧や染髪などしない校風の元で、派手な化粧をし出し、髪の毛も脱色した。

学校へ行くふりをして昼間から街をたむろする。

 

それが「自己」だと見誤り続け、単位取得不足で3年の秋に停学処分となった。

 

学校自体に思い残すことはない。

演劇を始める切っ掛けとなったのなら、本当はずっと続けたかった。

 

高校のクラスメイトの顔や名前はほとんど覚えていない。

しかし、演劇部に関わった人々のことは鮮明に思い返される。

将来の夢「過労死」

1日欠けたものの、なんとなく毎日ブログを打ち込んできた。

3日ほど何も書かず、メモも取らず絵を描いて過ごし、なんとなくラクだった。

なんとなくだ。

入院中、日々、ノートに体調や考えたことをメモしていた。

その日によって文の質も量も異なる。

そのノートを切っ掛けに、ブログをやってみようと思った。

外界にはモノが多すぎる。

院内では興味が新聞からの情報とノートとボールペンにしかなかった。

 

どんな時でも、どんな場所でも、衣食住が出来る人が一番強いと読んだことがある。

そうだとすると世間で最も強い人物は専業主婦になるだろう。

現代における最低限の文化的生活、衣食住とは具体的に何なのだろう。

 

衣…朝夕の更衣、洗濯

食…食料調達から調理、片付け

住…規則正しい生活、整理整頓

 

文字にするとあまりに味気がない「生」だ。

ここに金銭や野望が関係してくるから面倒くさい。

生まれながらにして、生物に平等などはあり得ない。

それは個性と呼ばれることもある。

 

一昔ほど前から、「オンリーワン」と言う言葉が流行っているように感じる。

虫酸が走る。

何故なのか適格な言葉が浮かばないものの、私はこの言葉が好きではない。

ちょうど、ゆとり教育の頃だったのだろうか。

時代は詰め込み教育に変わろうとしている。

先日ニュース番組で聞いたところによると、小学生の道徳科目に評価が付くようになるとのことだった。

授業内容は討論のようなものにもなっていくとのことで、大いに賛成だ。

なにごとも、闘って勝たなければならない。

私の場合、勝者にも生きる道はないらしく学生時代に「夢」と掲げたものは「過労死」だった。

それすら叶わない。

死にすら値しない人材であるととらえた。

 

話題がまとまらない。

こういった事柄をメモしていたのだ。

嘘では泣けない演劇

私は基本的に涙もろい。

幼少期から「泣き虫」でもあった。

作られた物語には涙することは滅多にない。

人々の考え、生き様、自分の過ちに涙することが多い。

我慢することはあまり出来ない。


涙が出るときは、体調がよいと考えている。


悲しい、寂しい、虚しいといった負の感覚を持ち合わせながら、瞬きもせず、涙が出ないことがある。

その時はなんとなくキケンな雰囲気を感じ取る。

脳内の何らかの刺激物と涙腺がどういった仕組みで働くのかはまったく見当がつかない。

それでも、近頃頻繁に起こるこの症状が怖い。

人前で泣くのも嫌だ。


どうしたいというのだろうか。

情報の意義

インターネットは嫌いだ。

普及し出した頃から得意ではなかったが、嫌いな部類は近年SNSだけだと思っていた。

しかし安い買い物やオークション、調べ物、おおかたすべてに及んできた。

自分の想像以上の芸術作品を簡単に目の当たりに出来てしまうことや、目に見えない人様とのやりとりは私にはひどく向かないらしい。

きょうび、携帯電話機能くらいは持ち合わせないと不便だということは分かる。

電話をする前にメール機能を使うことは礼儀なのだろうか。

このウェブログなど、本来ならば紙に鉛筆で書けば済む事柄を打ち込んでいる。

どちらが経済的かと考えても、コピー用紙と鉛筆だろう。

万が一、人様に読まれても、ある程度恥ずかしくない文章にするという点におそらく意義がある。

 

テレビも見たくない。

特に民放のバラエティ番組が苦手で、笑われることが前々からつらい。

家族は音がない方が耐え難いと言うため、我慢している。

報道番組も誘導されている感覚が気に入らない。

ドラマなど見た日にはイラついて本当の意味で発狂するかもしれない。

 

新聞を購読するか真剣に悩む。

月3千円ほどの偏った情報は、現在の私にとって有益なのだろうか。

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