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理刹主義-躁鬱病と診断された女-

昭和生まれ、社会生活より閉鎖病棟生活の方が長い。病的被害者ではなく社会的加害者の自白。

節煙と双極性障害

喫煙について記載してから、誰が見るわけでもないのにタバコを吸うこと自体が後ろめたくなった。

大げさでなく、喫煙のたびに何かに人格を深く否定されるような気になる。

案外、自らの心理操作などたやすいのかもしれない。

ただの小心者という本質も持ち合わせる。

事実ここ数日間、本数は激減している。

タバコを目につく場所に置かなくなった。

肺活量は一般的であると自負しながらも、運動の際に息切れが気になる。

大切な大切な金銭を燃やしている。

燃やし続けて10年。

なんたる大罪だ。

いいこともないじゃないか。

 

というわけでわざと「節煙」というタイトルをつけた。

3ヶ月後、「禁煙」にしてみせる。

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頭を打ち付けること

高校の頃からだと記憶する。

思考がまとまらない時、発信が思わしくない時、苛立った時など、自発的に思い切り床や壁に頭を打ち付けることがあった。

学校、病院、自宅、親族宅と、場所を選ばなかった。

周りから見れば奇怪な行為だ。

しばしば、それを自重してきた。

自重できるようになったのだと過信してきた。

昨日、思いがけず自宅の扉に頭をぶつけた。

一過性の痛みとともに、強烈な爽快感があった。

過去、頭を打ち付けることによってすっきりしてきたことを思い出してしまった。

出来ればなるべく硬い壁がいい。

コンクリートが望ましかった。

1人でいる時なら、何らかの発散方法としてまた利用するかもしれない。

殺傷願望

眠いところを食後3時間までは寝ないと我慢しているからなのか

歩きすぎて足が筋肉痛だからなのか

タバコの数を気にしているからなのか

肌荒れが一向に治らないからなのか

近隣住宅の生活音が気になるからなのか

予測変換が上手くいかないからなのか

大声など抑えられると過信しているからなのか

 

理由は分からない。

ただ、変わりたい、変えたい、戻したいだけ。

夜になるとたびたび、包丁で自分の胸を刺す錯覚を起こしたり、知っていた誰かを明白に殺す場面を想像することがある。

割と堪え難い。

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喫煙と双極性障害

今更告白すると、私は喫煙者だ。

1日に平均1箱(20本)ほど、デザイン事務所に勤めていた頃から10年以上にわたり習慣、依存になっている。

主治医から「無理にやめることはない」と過去二、三度言われたことがある。

入院中など、看護師から「タバコを吸うくらいで気持ちが落ち着くならばいくらでも吸えばいい」とすら言われたりもした。

そこに医学的な根拠があるのかないのかは知らない。

しかし自分にとって都合のよい助言(?)なので甘え続けている。

経済的に自立していない状態で現代における高級嗜好品をやめられないことが、他の生活費以外での出費を極端に控えようとする裏付けとなっている。

 

経済的理由から禁煙したいという希望はあるらしく、禁煙外来というものに頼ろうとしたことがあった。

その際には、精神科の薬をこんなに飲んでいる人に禁煙薬は処方出来ないと断られた。

 

「鉄の意志」がないため、ダラダラと禁煙とは程遠い生活をしている。

インターネットの情報に踊らされることにはうんざりする。

このところは1日にどのくらいの頻度でタバコを吸うのか記録して、金銭的に大層残酷な結果を見て落ち込んでいる。

禁煙が可能になれば、いくらか自由に金銭を使わせていただいても許されるかもしれない。

ただし誰が許すのかなど、ほとんど決まってはいない。

いわゆる自己満足に近いものだ。

 

身体的健康面からの考察はまったくと書いてよいほどない。

平均寿命が短かろうが、肺気腫だの、がんだのと診断されようがタバコをやめられない自信がある(ある意味「鉄の意志」)。

すべては目先の「カネ」だ。

 

自殺未遂に煮詰めたタバコを利用したこともある。

残念ながら願いは叶わず、現在こうして浪費を続ける。

昔の友人に「死にたければタバコを食べればいい」と言われたことを思い出したことがその際の未遂の切っ掛けである。

「仕事」の不満足度に、かなり追い詰められていたため本気にしていた。

 

ここまで来て、他者に「言われた」ことを言い訳にタバコに依存する自分が見えてきたような気がする。

記録を付けることによって金銭面での罪悪感も増してきている。

やめるか。やめられるのか。

だんだん自分に苛ついてきた。

 

そうしてまたタバコに火をつけるのだろう。

考えないことが得策かもしれない。

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金と時間、時事と想像

物騒な報道が続き、何日も新聞を買うことが出来ずにいる。

1人でいるときはテレビをつけない。

図書館の本を熱心に読むことにも飽きてしまう。

最低限の家事が終わればやることは何もない。

身体を動かすことも、何時間も続けられるものではない。

そうすると不安しか残らない。

近いうちに再び世界大戦でも起こるのではないかという不安と希望がある。

どうやら世の中、女子供は死んではいけないが男は死んでもいいらしい。

昨今の報道は、私にはそのように読み取れる。

私のような「死にたがり」は、いざという時こそ生き残ってしまうことがセオリーだ。

セオリーに反したいと思えば思うほど、物事はそれに準じて進む。

社会に出たいという希望があった。

それが叶えば、存在することに後ろめたさを感じなくなるのではないかと想像したからだ。

実際のところ、就労支援事業所の利用手続きは順調に進めている。

それにも関わらず、社会に出たところで、あるいは現在の生活を続けたところで、不安や不満がつのり続けることには変わりはないのだろうとようやく気がついた。

いくら、非現実的な想像(妄想)をしたところで、結局は私はそれが現実ではないことを認識することができる。

本当に認識することが困難な人も存在する。

そういった点から、私は極めて「半端」なのだ。

相変わらず、娯楽にあてる費用の見当もつかない。

今はそれが不満でもある。

しかし大戦でも起きたらどうだろう。

私のような「半端」者は保護されることはないと思うのだ。

裕福になった国家だからこそ生じた「甘え」こそが私どもの存在で、今日生きるか死ぬかという国家に戻ればそんなものはもみ消されるに違いない。

我が国の大多数の国民は「自分が戦争に巻き込まれることはない」と考えていると思う。

しかし事はそれでは済まされないところまで迫っている。

 

……そんな「想像」が尽きない。

趣味、目的、減量

ここ数日のことだ。

派手なようで地味な運動をこまめにしている。

いわゆる減量目的である。

入院中の運動量激減生活が尾を引き、いつの間にか体重が増加していた。

我が家には今まで体重計がなかったが、ちょっとした切っ掛けで購入してみたことが始まりとなった。

こんな身近、というより自分本体に実験材料があったことに驚いた。

これまで、自分の意志で体重が大幅に増減したことはない。

すべて病状のためだと、諦めていた。

たまたま極端に減っていった時期はラッキーだと思っていた。

私は現在、決して普通体型ではない。

そこを病気だの薬だののせいにするのはやめようとしている。

いつまで続くか分からないものの、ウォーキング、ラジオ体操、筋力トレーニング、軽いエクササイズに加え、食事制限も取り入れた。

夜中、空腹で目が覚める。

そこを我慢することが何かの業のような気がして今のところ面白い。

食費も減り、これほど経済的な遊びはないだろうと思う。

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今しかない世代

その世代ごとにしか出来ないことがある。

十代の悩みは二十代になれば浅はかに感じられ、

二十代の悩みは三十代になれば小さくなり、

三十代の悩みは…

と、歳を重ねるごとにおおらかになっていくのが人間、世の常であると思う。

もちろん、肉体的に最も充実した期間は一般に十代後半から二十代前半であるだろう。

私は今年31になった。

さすがに今から、たとえばフルマラソンを走るほどの体力をつけようとは思わない。

ただ、三十代は今しかない。始まったばかりだ。

周りの友人が二十代のうちにやってきたこと、うらめしく感じたことなどは、今から挑戦してもおおかた遅くはない。

遅くはないと言い聞かせ、先週あたりから気が向いた日にはコンビニで新聞を買っている。

月購読するまでにはまだいたらない。

2、3日かけて1日分の情報を得る。

今はそれでじゅうぶんで、そこから始まる。

読み物をしたいならば、古本を買ったり、図書館に通った方がよほど経済的だ。

しかし感受性が高い(と書くと響きはよい)ためにどんなジャンルの書物も読むことは苦痛でしかない。

それでも字は読みたい。

そんなわけで新聞である。

図書館にも新聞は置いてある。

しかし自分のペースで…と、どんどん言い訳がましくなる。

あと、近頃は1日に3、4回、ラジオ体操をしている。

ほとんど、何時代の日本人だか分からなくなってきた。

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「自殺島」を自殺未遂してた奴が読んだ

題名の気になる漫画本をいくつも手にしては、1巻と4〜5巻辺りのあらすじを見た上で読むことをしないものが多い私に、この作品は1巻の時点、書くなればタイトルのみで気になる存在だった。

 

自殺島 1 (ジェッツコミックス)

自殺島 1 (ジェッツコミックス)

 

 

いわゆる「ネタバレ」なしで綴ろうとすると、

「『自殺島』とは、自殺未遂を繰り返す常習者が島流しにされる場所」だという。

しかもそれは政府が自殺未遂者たちに当てる更正資金や、医療機関にまわす財産が無駄である(実際の書かれ方のニュアンスは少し異なる)として、「生きる義務」を放棄した未遂者たちが「生きる権利」を切り捨てられるという形になる。

 

現在の私にとっても大層生々しい。

気に入った作品は読み進めるうちに過剰にのめり込み洗脳されかけるため、時間の関係もあいまって4巻で引き上げ、自宅で最終巻までのあらすじを探した。

実質、4〜5巻くらいまでで私にはちょうどよかった。

これは巻末表紙をみれば分かる範囲であり、各巻のまとめが「サバイバル生活」主体になっていく。

そういった類で考えると、「7SEEDS」に衝撃を受け過ぎた私にはふさわしくない上、サバイバルのいろはを知りたいわけではない。

 

7SEEDS 1  フラワーコミックス

7SEEDS 1 フラワーコミックス

 

こちらの作品は完全にSFで、人類が絶滅した未来において子孫を残すためだけに生きる若者たちの壮絶なサバイバルが題材となっている。

たまたま友人宅で読みのめり込み過ぎたものの、本が進むにつれ色恋が多くなったため現在保留中だ。

 

話を「自殺島」に戻す。

 

私がもっとも汲み取った点は、ひとりひとり、自殺の理由は異なるという点だ。

わたしの答えはあなたの答えではない。

たまたま、最近よく考えていた。

題材は違うものの、よくこのタイミングでこの本を…という気分になる。

私にはファンタジーや学園ドラマ、恋愛が主な題材のものを毛嫌いする傾向がある。

そういった点からすれば、この作品は非現実的なように感じられつつも私にとってはじゅうぶんに現実的で、ぼんやり読んでいては自分が死ぬというような錯覚に陥る、刺激的なものだった。

存在することの後ろめたさをなくそう、という少しだけ出て来た杭を打ちのめされた感覚はある。

しかし杭はまた出せばいい。(芽ではない)

 

 

 

「あなたの知っているあなたと わたしの知っているあなたは ちがう

 あなたが嫌いなあなたは わたしが好きなあなたかもしれない」

 

最近、中学生をターゲットにこんな詩まがいなものを書いた。

その裏付けには、「自殺島」の初頭で描写されているものと近いものがあった。

不思議なめぐり合わせだ。

ヴィジュアル系の呪縛

小学校高学年頃から、上に兄弟がいるわけでもないのにバンド構成の音楽が好きになった。

当時バンドブームで、「ヴィジュアル系」という言葉が生まれ、売れたのもこの頃からだ。

私の周りには私が特別に好きなバンドを理解してくれる友人がいなかった。

ひとつ、特別に贔屓して聴き込むバンドがあった。そのバンドがたまたま「ヴィジュアル系」という部類に入っていた。

そのバンドのコンサートにはいまだに、たまに足を運んでいる。頻度については激減させ、現在の悩みどころである。

学生の頃はアルバイト代で遠くまでコンサートを観に行き、熱狂することが「生きがい」だったように思う。

当時からの知り合いが知れば、あいらはまーだそんなのを聞いているのかと呆れることだろう。

 

この類の音楽を好む、特に少女には「不真面目」という偏見が持たれがちである。

誤解のないように書くと、高校生になってからできた音楽の趣味が合う友人たちは真面目に勉強をし、当然のことだが学校に通い、現在の社会的役職で挙げるなら医師、デザイナー、システムエンジニア、店長職など、様々な職を立派にこなされている人がほとんどだ。

中にはそういった偏見を毛嫌いして自分はそう思われたくないから日常生活をきっちりすると豪語する子もいた。

つまり音楽の趣味で人間性を否定することは太古の風習であるということを書きたい。

 

話を戻すと、私は未だに二十年以上前から十数年前の音楽を聞くことがある。

自分にとって新しい音楽を取り入れることがもはや億劫であったりする。

それでも、いわゆる「ヴィジュアル系」をほんの少しでも目にしたり耳にしたりすると血が騒ぐ。

黒、赤、白を基調とした衣装を身にまとい、髪の毛はほぼ逆立てられる。非日常的な化粧がほどこされ、十字架やドクロ、血糊を使った小物から独特で毒々しく排他的な「ヴィジュアル」の表現、音楽性は多岐にわたるが、題材は「死」や「性」、「異常」、「孤独感」で思春期の少年少女をターゲットにしたものが多い。

子を持つ親だったなら、それだけで聞かせたくないジャンルになるだろう。

 

高校から卒業する年頃になると、ほぼ付き合いで観に行くコンサートも自然と増えた。

その中にあったバンドのひとつ、当時は正直あまり好きではなかった部類のものが、入院中ずっと頭の中を流れていた。

その曲もすべてが好きなわけではない。

名のあるバンドではなかったので、CDの出回りも少ない。

当時はカセットテープに録音してもらったものを聞いていた。

そんなちょっとした曲が頭を離れなかったので、iTunesで探したものの、発信はなかった。

そこでようやく思い立ち、YouTubeで検索をしてみた。

すると、あったのだ。

ずっと、もはや聞きたいという願望になっていた曲たちがたくさん、結果に反映された。

その中の1曲を耳にした時、涙が出た。

曲調は異様に速く、とても涙するような歌詞にはとらえがたいものである。

 

諸説あるものの、このバンドの作詞者は若くしてこの世を去ったという事実をずいぶん後になってから知った。

彼は、実際のところ何を伝えたくて叫び続けたのか。

不必要に美化してしまう。

 

死ぬ気になれば何でもできると

人は言うけれど

死に方しか考えられない

 

そう、歌い叫んでいる。

高校演劇への未練と自殺未遂

公立の中では進学校と呼ばれる高校に入学して間もなく、演劇部へ入部した。

当時の、人前に立つことが大の苦手で自分の発言がない私からすれば考えられない横行だった。

結果的に何も残さず2年の夏に退部することになったが、後悔だけが今でも残り続ける。

今朝方、その夢をみた。

現在でも鮮明に当時の部員や卒業生のことを覚えているものだ。

ひどくいたたまれない。

 

入部の切っ掛けは、「引っ込み思案な自分を変えたい」という思春期にありがちな純な動機だった。

この点のみに着目すれば、すべてうまくいっていた。

人前で自分を表現することが快感となったことは今でも忘れられない。

ある種、躁転だったのだと思う。

勉学は疎かになり、部活動のためだけに通学するようになった。

退部の要因は「自殺未遂」だ。

現代におければ、「頑張り方が分からない」、「どう頑張ればよいのか分からない」、「他者から見て頑張りが足りないという自分のことが許せない」といった考えには立派な弁護が成立するだろう。

当時の高校生にはギリギリ、それがなかった。

 

自分で記載するのは気恥ずかしいものの、私はいわゆる「キャスト」に専念していた。

台本を覚えるのも比較的早く、どうでもよいような小道具を用意することが得意だった。

一般と比べればおそらく大きいけれど、声量は部員の中では一番なかった。

それでも大役を頂戴し、自分は演劇だけをやっていればよいと思い込み、高校レベルならではの陳腐な役作りに没頭する日々が続いた。

 

ある時からである。

全体的に「なんとなく」でやってきた部員たちに対し、発言力の高い部員から毎日のように叱咤が入るようになった。

当然のことだ。

どんな部活動にもチームワークというものは必要であるが、演劇という分野はそれが特に繊細だった。

「引っ込み思案な自分を変え」ることはできてきていたが、私にはまだまだ発言力と意思が足りなかった。

 

地区大会に向けての新しい台本が決まり、役割も与えられた。

主人公はピアノを弾く。

私は音楽がからっきし苦手でピアノなど触ったことがないに等しい。

さあ、頑張ろうと思った時だ。

何をどう頑張ればよいのかさっぱり分からなくなった。

台本をどれだけ見ても身が入らない。

明日には「読み合わせ」で全部員が顔を合わせる。

 

明日、目が覚めなければよいと考えた。

 

 

 

 

退部してからの生活は部活動のみの生活以上に、比べ物にならないほど酷いものになった。

授業では何を言っているのか当たり前のように理解できない。

周りはそろそろ大学へ向けての進路を考え始める中で、名門と呼ばれる大学の名前すらまったく知らない上、興味もわかない。

人間関係は割と良好なままだったにも関わらず、自然と学校へ通う頻度は減った。

誰1人化粧や染髪などしない校風の元で、派手な化粧をし出し、髪の毛も脱色した。

学校へ行くふりをして昼間から街をたむろする。

 

それが「自己」だと見誤り続け、単位取得不足で3年の秋に停学処分となった。

 

学校自体に思い残すことはない。

演劇を始める切っ掛けとなったのなら、本当はずっと続けたかった。

 

高校のクラスメイトの顔や名前はほとんど覚えていない。

しかし、演劇部に関わった人々のことは鮮明に思い返される。