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理刹主義-躁鬱病と診断された女-

昭和生まれ、社会生活より閉鎖病棟生活の方が長い。病的被害者ではなく社会的加害者の自白。

ヴィジュアル系の呪縛

小学校高学年頃から、上に兄弟がいるわけでもないのにバンド構成の音楽が好きになった。

当時バンドブームで、「ヴィジュアル系」という言葉が生まれ、売れたのもこの頃からだ。

私の周りには私が特別に好きなバンドを理解してくれる友人がいなかった。

ひとつ、特別に贔屓して聴き込むバンドがあった。そのバンドがたまたま「ヴィジュアル系」という部類に入っていた。

そのバンドのコンサートにはいまだに、たまに足を運んでいる。頻度については激減させ、現在の悩みどころである。

学生の頃はアルバイト代で遠くまでコンサートを観に行き、熱狂することが「生きがい」だったように思う。

当時からの知り合いが知れば、あいらはまーだそんなのを聞いているのかと呆れることだろう。

 

この類の音楽を好む、特に少女には「不真面目」という偏見が持たれがちである。

誤解のないように書くと、高校生になってからできた音楽の趣味が合う友人たちは真面目に勉強をし、当然のことだが学校に通い、現在の社会的役職で挙げるなら医師、デザイナー、システムエンジニア、店長職など、様々な職を立派にこなされている人がほとんどだ。

中にはそういった偏見を毛嫌いして自分はそう思われたくないから日常生活をきっちりすると豪語する子もいた。

つまり音楽の趣味で人間性を否定することは太古の風習であるということを書きたい。

 

話を戻すと、私は未だに二十年以上前から十数年前の音楽を聞くことがある。

自分にとって新しい音楽を取り入れることがもはや億劫であったりする。

それでも、いわゆる「ヴィジュアル系」をほんの少しでも目にしたり耳にしたりすると血が騒ぐ。

黒、赤、白を基調とした衣装を身にまとい、髪の毛はほぼ逆立てられる。非日常的な化粧がほどこされ、十字架やドクロ、血糊を使った小物から独特で毒々しく排他的な「ヴィジュアル」の表現、音楽性は多岐にわたるが、題材は「死」や「性」、「異常」、「孤独感」で思春期の少年少女をターゲットにしたものが多い。

子を持つ親だったなら、それだけで聞かせたくないジャンルになるだろう。

 

高校から卒業する年頃になると、ほぼ付き合いで観に行くコンサートも自然と増えた。

その中にあったバンドのひとつ、当時は正直あまり好きではなかった部類のものが、入院中ずっと頭の中を流れていた。

その曲もすべてが好きなわけではない。

名のあるバンドではなかったので、CDの出回りも少ない。

当時はカセットテープに録音してもらったものを聞いていた。

そんなちょっとした曲が頭を離れなかったので、iTunesで探したものの、発信はなかった。

そこでようやく思い立ち、YouTubeで検索をしてみた。

すると、あったのだ。

ずっと、もはや聞きたいという願望になっていた曲たちがたくさん、結果に反映された。

その中の1曲を耳にした時、涙が出た。

曲調は異様に速く、とても涙するような歌詞にはとらえがたいものである。

 

諸説あるものの、このバンドの作詞者は若くしてこの世を去ったという事実をずいぶん後になってから知った。

彼は、実際のところ何を伝えたくて叫び続けたのか。

不必要に美化してしまう。

 

死ぬ気になれば何でもできると

人は言うけれど

死に方しか考えられない

 

そう、歌い叫んでいる。

高校演劇への未練と自殺未遂

公立の中では進学校と呼ばれる高校に入学して間もなく、演劇部へ入部した。

当時の、人前に立つことが大の苦手で自分の発言がない私からすれば考えられない暴挙だった。

結果的に何も残さず2年の夏に退部することになったが、後悔だけが今でも残り続ける。

今朝方、その夢をみた。

現在でも鮮明に当時の部員や卒業生のことを覚えているものだ。

ひどくいたたまれない。

 

入部の切っ掛けは、「引っ込み思案な自分を変えたい」という思春期にありがちな純な動機だった。

この点のみに着目すれば、すべてうまくいっていた。

人前で自分を表現することが快感となったことは今でも忘れられない。

ある種、躁転だったのだと思う。

勉学は疎かになり、部活動のためだけに通学するようになった。

退部の要因は「自殺未遂」だ。

現代におければ、「頑張り方が分からない」、「どう頑張ればよいのか分からない」、「他者から見て頑張りが足りないという自分のことが許せない」といった考えには立派な弁護が成立するだろう。

当時の高校生にはギリギリ、それがなかった。

 

自分で記載するのは気恥ずかしいものの、私はいわゆる「キャスト」に専念していた。

台本を覚えるのも比較的早く、どうでもよいような小道具を用意することが得意だった。

一般と比べればおそらく大きいけれど、声量は部員の中では一番なかった。

それでも大役を頂戴し、自分は演劇だけをやっていればよいと思い込み、高校レベルならではの陳腐な役作りに没頭する日々が続いた。

 

ある時からである。

全体的に「なんとなく」でやってきた部員たちに対し、発言力の高い部員から毎日のように叱咤が入るようになった。

当然のことだ。

どんな部活動にもチームワークというものは必要であるが、演劇という分野はそれが特に繊細だった。

「引っ込み思案な自分を変え」ることはできてきていたが、私にはまだまだ発言力と意思が足りなかった。

 

地区大会に向けての新しい台本が決まり、役割も与えられた。

主人公はピアノを弾く。

私は音楽がからっきし苦手でピアノなど触ったことがないに等しい。

さあ、頑張ろうと思った時だ。

何をどう頑張ればよいのかさっぱり分からなくなった。

台本をどれだけ見ても身が入らない。

明日には「読み合わせ」で全部員が顔を合わせる。

 

明日、目が覚めなければよいと考えた。

 

 

 

 

退部してからの生活は部活動のみの生活以上に、比べ物にならないほどに酷いものとなった。

授業では何を言っているのか当たり前のように理解できない。

周りはそろそろ大学へ向けての進路を考え始める中で、名門と呼ばれる大学の名前すらまったく知らない上、興味もわかない。

人間関係は割と良好なままだったにも関わらず、自然と学校へ通う頻度は減った。

誰1人化粧や染髪などしない校風の元で、派手な化粧をし出し、髪の毛も脱色した。

学校へ行くふりをして昼間から街をたむろする。

 

それが「自己」だと見誤り続け、単位取得不足で3年の秋に停学処分となった。

 

学校自体に思い残すことはない。

演劇を始める切っ掛けとなったのなら、本当はずっと続けたかった。

 

高校のクラスメイトの顔や名前はほとんど覚えていない。

しかし、演劇部に関わった人々のことは鮮明に思い返される。

将来の夢「過労死」

1日欠けたものの、なんとなく毎日ブログを打ち込んできた。

3日ほど何も書かず、メモも取らず絵を描いて過ごし、なんとなくラクだった。

なんとなくだ。

入院中、日々、ノートに体調や考えたことをメモしていた。

その日によって文の質も量も異なる。

そのノートを切っ掛けに、ブログをやってみようと思った。

外界にはモノが多すぎる。

院内では興味が新聞からの情報とノートとボールペンにしかなかった。

 

どんな時でも、どんな場所でも、衣食住が出来る人が一番強いと読んだことがある。

そうだとすると世間で最も強い人物は専業主婦になるだろう。

現代における最低限の文化的生活、衣食住とは具体的に何なのだろう。

 

衣…朝夕の更衣、洗濯

食…食料調達から調理、片付け

住…規則正しい生活、整理整頓

 

文字にするとあまりに味気がない「生」だ。

ここに金銭や野望が関係してくるから面倒くさい。

生まれながらにして、生物に平等などはあり得ない。

それは個性と呼ばれることもある。

 

一昔ほど前から、「オンリーワン」と言う言葉が流行っているように感じる。

虫酸が走る。

何故なのか適格な言葉が浮かばないものの、私はこの言葉が好きではない。

ちょうど、ゆとり教育の頃だったのだろうか。

時代は詰め込み教育に変わろうとしている。

先日ニュース番組で聞いたところによると、小学生の道徳科目に評価が付くようになるとのことだった。

授業内容は討論のようなものにもなっていくとのことで、大いに賛成だ。

なにごとも、闘って勝たなければならない。

私の場合、勝者にも生きる道はないらしく学生時代に「夢」と掲げたものは「過労死」だった。

それすら叶わない。

死にすら値しない人材であるととらえた。

 

話題がまとまらない。

こういった事柄をメモしていたのだ。

嘘では泣けない演劇

私は基本的に涙もろい。

幼少期から「泣き虫」でもあった。

作られた物語には涙することは滅多にない。

人々の考え、生き様、自分の過ちに涙することが多い。

我慢することはあまり出来ない。


涙が出るときは、体調がよいと考えている。


悲しい、寂しい、虚しいといった負の感覚を持ち合わせながら、瞬きもせず、涙が出ないことがある。

その時はなんとなくキケンな雰囲気を感じ取る。

脳内の何らかの刺激物と涙腺がどういった仕組みで働くのかはまったく見当がつかない。

それでも、近頃頻繁に起こるこの症状が怖い。

人前で泣くのも嫌だ。


どうしたいというのだろうか。

情報の意義

インターネットは嫌いだ。

普及し出した頃から得意ではなかったが、嫌いな部類は近年SNSだけだと思っていた。

しかし安い買い物やオークション、調べ物、おおかたすべてに及んできた。

自分の想像以上の芸術作品を簡単に目の当たりに出来てしまうことや、目に見えない人様とのやりとりは私にはひどく向かないらしい。

きょうび、携帯電話機能くらいは持ち合わせないと不便だということは分かる。

電話をする前にメール機能を使うことは礼儀なのだろうか。

このウェブログなど、本来ならば紙に鉛筆で書けば済む事柄を打ち込んでいる。

どちらが経済的かと考えても、コピー用紙と鉛筆だろう。

万が一、人様に読まれても、ある程度恥ずかしくない文章にするという点におそらく意義がある。

 

テレビも見たくない。

特に民放のバラエティ番組が苦手で、笑われることが前々からつらい。

家族は音がない方が耐え難いと言うため、我慢している。

報道番組も誘導されている感覚が気に入らない。

ドラマなど見た日にはイラついて本当の意味で発狂するかもしれない。

 

新聞を購読するか真剣に悩む。

月3千円ほどの偏った情報は、現在の私にとって有益なのだろうか。

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自信過剰な妄想

様々な患者さんと病棟でふれあい、私は医学的な意味での「妄想」は持ち合わせていないと考えて「強い思い込み」、「強迫症状」と表現してきた。

真にその症状で苦しんでいる方々に失礼だと考えるからだ。

しかし、私のものもじゅうぶんに「妄想」の類に入るのではないかと思うようになった。

 

女子病棟で比較的若そうな複数の患者さんがいだく「妄想」や「幻覚」、「幻聴」は、性的暴行を受けたり受けそうになったりするものが多いように感じた。

割とお年を召された方では、アイドルグループの男の子のことを自分の弟だと言ったりする。

それを現実だと「思い込んで」いる。

 

私の場合。

季戸あいらはブログから才能を見出されて著書を出版する。

中高生の若者や、躁うつ病の患者を家族に持つ方々に向けての講演依頼が殺到する。

出版物はベストセラー、絵画、演劇などマルチな才能を発揮し、作曲活動にも励むようになる。

クラシック曲にのせた辛辣な歌詞が話題を呼び、紅白歌合戦に出演する。

自らを題材にした閉鎖病棟が舞台の映画などを多数手がける。

「理刹主義」はその年の流行語大賞に。

これらは西暦2020年までの間に起こる。

 

と、「思い込んで」いた。

1ヶ月半ほど続いたこれらの「妄想」には疲れさせられた。

未来を非現実的に思い込む。

思い込んでいるうちは非現実的だとは思わない。

想像が進む時、自分がどんな立場にいようと関係ないのだ。

 

入力しているうちに、ただの「自信過剰」と表現することが相応しい気がしてきた。

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作られた正常

昨日からやたらと頻繁に過去のことが浮上する。

悔いることしかない。

あまりにも醜い。

激しく躁転した頃のことを切実に忘れ去りたい。

だいたい、24〜25歳頃だったと思う。

 

「思う」、「だろう」という言葉が嫌いだった。

何もかも断定でなければ気が済まない。

都合が悪くなると開き直り、0か100で動く。

自分を中心に地球を回すと豪語する。

自分の人生は自分のものだと、社会的な身分からは相応しくない発言を繰り返す。(当時はパートアルバイト)

一度目の婚期を逃す。

やたらと怒りっぽく喧嘩早くなり、他人はうんざりしていたようだ。

警察沙汰になることも起こしたりした。

食べなくても、眠らなくても壮絶に動けるため体重は半年で15kg以上減った。

平均体重より10kg弱少ないくらいで、現代の兆候からするとちょうどよかったのかもしれないが、減り方が異常だと言われ総合病院で様々な科の診察を受けた。

身体に異常はまったくなく、その頃通っていた精神科の主治医と「対等」だと思い込むほどに気が触れていた。

 

神経が研ぎ澄まされていた、と書くとあまりに響きが良い。

しかし、そんな状態だった。

 

ずっとそのままだったなら、まだよかったのかもしれない。

異常な時は異常なこと自体に気が付かないものだ。

こう書くと、現在も異常なのだろうなと不安になる。

では、正常とは何か。

誰かが、それぞれの特化した分野において、基準の数値、評価等と照らし合わせ、それが一定の範囲内であると判断すれば正常とされるのだろう。

 

そうした時、現代の我が国の正常とは激しく狂っているのではないかと考える。

評価、評判、世間体、流行、すべて偏見が作る価値観だ。

 

なんだか、くたびれた。

 

この国は私には大変生きづらい。

 

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小さな世界で

極めて狭い世界で生きていることを自覚している。

今以上に広がることは厄介だ。

何らかの、時代にそった文化的な事物に触れることは良いことかもしれない。

そこから「世界」もとい「考え」は広がる。

ただでさえ持て余す想像を、これ以上広げても利益はない。

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平穏の代償

退院してから、こんなに穏やかな気持ちで長時間過ごすことはなかったくらいに気持ちが穏やかである。

穏やか過ぎて怖い。

こんなに安定した気持ちでいつまでも過ごすことが出来たらどれだけラクだろうか。

ただし意欲もない。

最低限の家事をして、あとはずっと、朝からずっと、ぼんやりとしている。

何か、絵をかきたいのだ。

しかし何も浮かばない。

デッサンは億劫だ。

テーブルの上には新しいページをひらいたスケッチブックと色鉛筆が置かれているだけ。

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消去法生存

多くの人は「生きるため」に仕事をしているのだと思う。

仕事のことで頭がいっぱいだったり、憩いのために仕事をするのだと思う。

多くの人は「生きるため」に食事を摂るのだとは思わない。

食事のことで頭がいっぱいになるのはつかの間であるし、むしろいかに華やかに、また、合理的に食事を摂るかの方に重きがありそうだ。

 

多くの人は「生きるため」に呼吸をするのだとは思わない。

 

私は死ぬことが出来ないから自発呼吸を繰り返すことが出来る。

 

今はそれが酷く虚しい。

 

誰よりも派手に、人前で死んでみせたい。

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