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理刹主義-躁鬱病と診断された女-

昭和生まれ、社会生活より閉鎖病棟生活の方が長い。病的被害者ではなく社会的加害者の自白。

根本の見直し

記録を付けることがとても久しぶりだ。

 

ここ数ヶ月、地域活動支援センターの利用が盛んであった。たくさんの方々と交流し、充実していた、ように錯覚する。

 

体調面は悪くはない。

ただしよくもない。

 

これを世では「普通」と呼ぶのかもしれない。

しかし「普通」といった感覚はない。

どちらかというと悪いのかもしれない。

 

人々との交流は私にとって良い方向に作用すると、かねてより考えられてきた。

そこに疑問を持つべきなのかもしれない。

 

人々と接することにより、私はより元気な私であろうとする。

必然的に体調が上向きになるような感覚を得ていた。

これが錯覚であるという疑問をようやく持ち始めた。

理由として、帰宅すると何かをする気力もなく極度に眠くなることが多いというものが挙げられる。

一日の中での力の配分がうまくいかない。

 

私の容量を超える体力を使っているのだということを否定できない。

 

軽い躁状態が続いているのだろうか。

 

私の安定した生活には体力の調整が不可欠である。

 

地活の利用に偏り、B型を休みがちでもある。

 

現在の私にどちらが適しているのか、見極めることをできる限り早い段階で行わなければならない。

震災うつ

認知度が低そうな言葉であるが、甚大な災害に見舞われてうつ状態になることは自然なことだと思う。

世の中は新しいうつ状態を馬鹿にする傾向が強いと感じる。

 

6日朝に流れる情報を見ていたら動けなくなった。

 

テレビを消せばいい。

しかしそんな発想もしばらくは浮かばない。

頓服薬を飲めばいい。

それも念頭にない。

 

時間にして2時間ほどだろうか、事業所に行く支度を進めることがまったくできず、当人はまるで何でもないというのに休むことにしてしまった。

 

私は幸い、生まれてこのかた大きな災害に直接的に遭っことがない。

そのためなのか、甚大な被害状況などを画面越しにでも目の当たりにすると申し訳ない気持ちで支配される。

朝もそうであったのだろうと、今更になって分析する。

 

私自身に被害が及んだらどうしよう、親族は無事なのか、そういった類の不安ではない。

何もできない私はなんて無力なんだ、といった喪失感でもない。

 

ことごとく被害を受けない私のことが許せないのだ。

 

自意識にもほどがある。

 

 

全国で災害がたび重なり、その都度甚大な被害が出ている。

それにも関わらず世の中は回る。

何事もないかのように。

実際何事もない場所ではそれが当たり前でなければならない。

 

それを、受け入れることができない。

人並みの生活

この1ヶ月ほどほぼうつ状態にあり、現実逃避的な思考から自殺を考えたり実行に移しそうになったりしたことで再入院を考えたりもした。

 

そんなことを外来で話した。

主治医は普段以上に大らかであるように感じた。

 

体調が良い状態、悪い状態に一喜一憂しないこと、それはとても難しいことだが、大切だという話になった。

この1ヶ月で私自身、躁鬱の波は根強くあることを実感した。

体調がよいと感じる時はあくまで躁なのだ。

 

 

過去に私は線路内に立ち入って警察沙汰になったり、大量服薬して救急車で運ばれたりしたことが幾多ある。

それらの事柄があった時期から見ると、就労支援を経て、私は私自身のペースをおおかた把握出来ているのではないかと思うと言われた。

 

その頃に比べれば、間違いなく躁鬱の波は穏やかになりつつある。

ただ、その頃に比べれば、の話だ。

 

現在では現在なりの工夫があってこそどうにか保っている。

工夫とは努力や苦労とも置き換えられるかもしれない。

いずれにせよ以前にはなかった事柄だ。

 

私の存在は一般の人未満である。そんなこだわりが強い。

一般未満の人間は相応の身分をわきまえなければならない。そう強く考えることにより、楽しい、嬉しいといったプラスな感情を抱くことに引け目を感じる。

 

そんな時にニュース番組で流れていた「人並みの生活がしたかった」というものが何たるか、必要以上に深く考えた。

深く考えたところでせいぜい、2ヶ月に一度くらい美容院で白髪を染められたらいいなぁ、とか、話題のスイーツを食べに行ってみたい、カラオケで大声を出したい、といった娯楽に関するものになる。

この時点でじゅうにぶんに一般人を装っている。

 

人並み、数値にして国民の8割以上が所有する娯楽とは何なのかを具体的に知りたい。

何らかの現実逃避

なぜ、私が、自発呼吸を繰り返すことができるのだろうか。

この機能を欲しているはずの誰かに渡したい。

 

なぜ、人はひとを嫌悪するのだろうか。

なぜ、わざわざ人とひととヒトと人間とを使い分けてきたのだろうか。

 

なぜ、飛び降りるのだろうか。

なぜ、首を絞めるのだろうか。

なぜ、劇物を口にするのだろうか。

なぜ、私は死のうとしているのだろうか。

なぜ、あなたには出来て私には出来ないのだろうか。

 

すべて、ただただ流れているだけの考えだ。

応えなどどうでもよい。

他の疾患者と関わること

私は精神疾患者だ。

重度か軽度かははかりかねる。

少なくとも現在の主治医から見ればやや重度寄りの意見書が出されていることが予想される。

 

躁鬱病の一般的にある主な症状として、私にも精力的に活動できる時と日常生活を送れないほど動けなくなる時との差が非常に激しく、その切り替わるタイミングを予測することがまったくできないというものがある。

精力的に活動できる状態に常にあれば、問題なく一般就労等考えられるレベルである。しかし決してそうはならない。

 

また、軽度のもので強迫性症状がある。

これは上記の症状の、おそらく切り替わる時期に多く見受けられる。

死ななければならない。そろそろ自殺しよう。今なら死ねる。

そんな考えに支配されて実際行動に移しそうになることもある。

これに関しては数年前とは比べ物にならないほど症状はラクになりつつある。

ただしほんの少しのきっかけで重度になることがある。

 

きっかけとはひととの関わり方であることが多いことに最近気づいた。

 

おそらく統合失調症で、いわゆる幻聴の症状があると思われる患者がいる。

 

彼女は度々、ご自身への悪口に苦しめられているように見える。

しかしそれが幻聴であることを認識していない状態なのではないかと憶測する。

度々、私に対して(だけではないと思いたいのだが)「どうして悪口を言うんですか」と、とても思いつめた表情で問いかける。

断じて私は悪口など言っていない。

しかし彼女にはそれが聞こえ、それが私の声であると断定できる根拠があるのだろう。

 

しばらくは意識的に彼女の近くにいないよう心がけた。

しかしそれにも限度がある。

私自身の症状にも限度がある。

 

私が先に、まるで登校拒否のような状態になってしまった。

 

彼女が苦しんでいるのは私のせいなのではないか、彼女に会いたくない、悪口を言われていると感じているのに真っ向から否定し続けることも申し訳ない、それでも私の人権もある程度保守したい…

 

逃げるしかなくなってしまった。

 

被害妄想の類である。

 

彼女が悪いわけではない。

彼女の症状が、彼女をそうさせているということは分かっている。

なにか、打ち解けるきっかけも欲しいものだ。

ブレーキのない車

おそらく躁というエネルギーはガソリンにたとえることができる。

アクセルを踏むと発車する。アクセルとは何らかの思考だ。

 

アクセルは踏まれっぱなしで、どんどん加速する。

加速したまま急カーブをこなすことさえ快感に思えてくる。

この車にはブレーキという概念がなければ車線という概念もない。

対向車が現れようとお構い無しに突っ走る。

 

この車にはブレーキ以外にも欠点がある。

燃料メーターが欠損しているのだ。

 

アクセルを踏んでも、踏み続けてもだんだんとスピードが落ちる時がやってくる。

それがいつおとずれるかなど、見当もつかない。

そこに苛立ちが生じる。

ガソリンを入れればよいことは分かるかもしれない。

しかし大方、速度がなくなる時にいる場所は真っ暗な田舎道とでもいうのだろうか、ガソリンスタンドなどよほど見当たらない。

 

人通りのない道で止まった車はしばらく止まったままだ。

このまま動けず餓死するかもしれない、そんな絶望にも包まれる。

 

ある時、車を乗り捨て歩いてみようと思い立つ。

ブレーキのない車に乗っていた時には気づくことさえなかった景色を様々に眺める。

 

そんな時はおそらくいちばん幸せだ。

 

そのまま歩いていればよい。

 

しかしそうはいかないのが、目の前に現れる次の車の魅力だ。

私はあの快感を知っている。どんなに戒めようとも、次の車に乗ることだろう。

 

いつになっても、良品に巡り会うことはない。

ピアサポート

ピアサポートという言葉を知ったのは昨年だ。

近い境遇にある障害者、疾患者へ向け、当事者が体験を語るものらしい。(この説明はだいぶ大雑把である)

 

どうやら精神障害の分野において、この機会は多々あるのだそうだ。

近頃ではアメリカ発祥のWRAP(ラップ)という活動も広まりつつある。

 

体験を語ることとは、かねてより私が切望してきたことだ。

しかし果たして現在の私が自らの体験を特定数の人々に向け語ることができるのだろうか。

たどった道筋を大まかにさかのぼる。

思い出すことがツライこともあったのかもしれない、あるいは体調が優れない、涙することばかりだ。

 

まだ、時期ではないと見送ることも得策にある。

それでも自我が先立つことで葛藤が続く。

明確な自殺願望

近頃抑鬱状態である。

原因は安定してきているということへの過信、引き金は容量をはるかに超える作業をこなしたことだ。

それで2週間近く動けないのではどうしようもない。

 

安定している、もう大丈夫だと何度も自己暗示と啓発をした。

そのことがかえってプレッシャーになっていたことに気づいた。

 

ああ、そろそろ死のう。

 

明らかな躁状態ではない時にこう考えることは近年まれである。

 

奇声を発したところで、大声で泣いたところで状況は変わらない、今は。

そのうち動ける時が来るのは分かっている。

 

その、そのうちが今はひたすらに長く感じる。

いくつか持つようになった所属できる場所は、私がいてもいなくても何も変わらない。

 

何も変わらないのだ。

 

それならいつまでもいたくはない。

 

近頃の出すぎた行動を戒め、身の程を知るとよい。

安定?=我慢

私の症状は数年前とは比べものにならないほど安定してきている。

 

私は数年前までとは比べものにならないほど常に我慢を続けている。

 

本当は奇声を発したい。

本当は器物を破壊したい。

本当は死のうと思っている。

本当は他人を殴りたいほどに恨んでいる。

本当は今すぐに家を飛び出して暴れ散らしたい。

しかも、すべて心底願っている。

それらを抑え我慢している。抑えようとする努力ではない。

 

これでは安定してきているといえるのだろうか。

我慢に我慢を重ねたらどうなるのだろうか。

体調管理>気分管理

酷暑と呼ばれる暑さが続いている。

つい先日に、熱中症の初期症状と思われる症状に見舞われた。

すぐに浮かんだのは「体調管理も仕事のうち」という言葉だった。

 

これだから日本人は過労死するのだ。

 

しかし浮かび、思い出してしまったものは仕方がない、現在の私なりに必死で体調管理(最低限の熱中症対策)を試みることにした。

そうすると気分観察まで気が回らない。

 

なんとなく、けだるい気がする。

それは暑さに太刀打ちできる体力がないためだ、身体を休めればいくらか回復するだろう。

 

なんとなく、テンションが高い気がする。

それは暑さを吹き飛ばす元気を出すためだ、躁状態とは異るだろう。そんなことよりも今日一日を乗り切らなければ。

 

本格的な夏はこれからというのにこれでは先が思いやられると、冷房と扇風機を駆使した狭い室内で強い眠気に襲われながら文字を羅列させる。

帰宅して随分経つというのに身体はほてり、足先だけはひどく冷え切っている。