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理刹主義-躁鬱病と診断された女-

昭和生まれ、社会生活より閉鎖病棟生活の方が長い。病的被害者ではなく社会的加害者の自白。

認識と現実の相違

精神疾患にもさまざまなものがある。

半世紀も前であれば無残な扱いを受けたであろう我々も現代では“尊重”され、場合によっては優遇されることすらある。

偏見は消えずとも時代は変わるのだ。

 

時代は変わっても、の話である。

「精神病=鬱病鬱状態」という認識で止まっているのだろうと感じる。

ようやくそれが認知されて来たとありがたく感じた方が良いのかもしれない。

 

私が激しい躁を発症した後に出会い、仲良くしている近隣の友人とそういった込み入った話題になったことがあった。

彼女はとても言葉を選んだ様子で、最終的に「あいら(私)は鬱だとは感じない」と伝えてくれた。

その認識は合っている。私は鬱病ではない。

しかし彼女の中には「精神を患う=鬱」という認識しかなかったのだろうという結論に結びついた。

 

そこから躁鬱のなんたるかを私の言葉で説明することはなかなか難しかった。

 

それでも又聞きするだけでも明らかに分かる躁鬱病患者が彼女の知り合いにいるらしいことまで判明た。どうやら対応に困惑していた最中だったらしい。

 

私は会ったこともないが、そのひととほぼ確実に同じ気分障害を持っていると伝えたところ、驚愕の表情を浮かべた。

私の病状が芳しくない時にわざわざ彼女に会うことはこれまでなかった上、病気の話も具体的にしたことはなかった。

彼女から見て、私はただの愉快な人に過ぎなかったのだろう。

 

「よほど好きな相手でなければ、あの様子(躁状態のひとの様子)は耐えられない」と彼女は言った。

「仮に好きであったとしても、離れていった人もいるんだよ」…その言葉は飲み込まれた。

 

一般的に躁状態である人間は排除されがちである。

私が躁状態になることを怖れることの裏付けとなった。

自己暗示

まったくの軽度であるが、私には1日の中で躁鬱の波があるらしいことに気がついた。

 

日中、ひとと会っている間や物事に集中している時は軽い躁、あるいは元気な様子であり、自宅でひとりで何もしていないと「そろそろ死のうかなぁ」などといった考えがぼんやりと流れているのだ。

一般的な人は毎日のようにこんなことは考えないのではないだろうか。

 

ただしそういった考えがよぎっていることに対してつらくもなんともないし、支配されるわけでもない。

ただ、考えが流れているだけだ。

 

この状態は何なのか、理解に苦しむ。

理解する必要もないのかもしれない。

症状のひとつとしてとらえ、再来週の外来までに主治医に報告できるよう努める。

観劇

おそらくボランティアの劇団の方々による無料の催しがあった。内容は分かりやすい喜劇だ。

ただ人前で声を張ることだけですら構わない、そのこと自体がとても魅力的だった。

 

私が希望する私の進みたい方向性と、進むべきであろう方向性が異なってきている。

 

やりたいこと、できること、するべきこととは、本来異なっていてよい。

すべてが同一であるひとの方が少ないだろう。

ただし私の場合、一般のそれらとは次元が違うことが前提だ。

 

端的に、芝居がしたいのだ。

今ならそれは時も場所も選ばない。

 

しかし躁鬱発症のきっかけは芝居にあった可能性が高い。

そのことで引っかかる。

 

やりたいこと…芝居

やるべきこと…体調の波を安定させること

できること…現状維持かそれ以下

 

やりたいことをやることによって、現在できることすらも崩す恐れが大いにある。

できることは保たなければならない。

 

そうすると、私が今の私の立場で「やってもよいこと」とは何なのだろうか。

 

上記の物差しではかるならせいぜい、好きな舞台のレンタルDVDを見て家でセリフを真似することくらいにとどまる。

きっと、そこで満足しなければならない。

昔馴染み

落ち着かなければならない。

 

3〜4時間ほど、凄まじく楽しい時間を過ごした。

少人数で久しぶりの集まりがあった。

かれこれ15年は経つのだと皆騒然とした。

普段飲まない酒を飲んだ。

大いに笑った。

それぞれがそれぞれの問題を抱えながら笑っていた。

この時間がいつまでも続けばよいと、明日も明後日も集まれればよいとひたすらに願ってしまう。

 

この勢いで朝まで1人ででも酒を飲み続けたいと考えてしまう。

 

それではいけない。

 

これも一種のオンオフの切り替えなのだと言い聞かせる。

ごく稀な機会だからこそ楽しい。

どんなときも時間は平等に過ぎる。

 

私は眠らなければならない。

 

薬も作用してきたような気がする。

 

どこか冴えているような気もする。

 

私は眠らなければならない。

 

ゆったりと呼吸をしながら、きっとまた会える時までに、まっとうな生活を送れるよう、リズムを崩さぬよう、深い眠りに就けるように、徐々にで構わない、落ち着かなければならない。

疲労で眠れない

作業が立て込んでいる。

今週は普段より若干作業時間が長い上、内容も神経を遣うものであった。

くたびれている。

 

それにも関わらず、食事に気がすすまない。

短時間の睡眠で覚醒していまう。

典型的な躁状態であると思われる。

 

過去と違う点は注意力が散漫な点と体力がついていかない点だ。

 

 

一度起て時計が目に入ったのは午前1時頃で、かれこれ4時間が経過してしまった。

日付が変わって今日で作業は大詰めとなる。

 

猫の手も借りたい忙しさだろうと感じる。

しかし猫の手にすらなれそうにない私である。

むしろ迷惑をかける危険分子となる可能性が高い。

どうするか、どうしたものか。

 

来週動けなくなっても構わない、少しでも力になりたい。

そう切に願うことと裏腹に、他の利用者の方と些細なことで衝突してしまうのではないかと想像するほどに気が立っている。

 

そう、気が立っているらしい。

 

それならば簡単かもしれない。

どんな理由があろうと、作業以外で周りに迷惑をかけないことと強く戒めればよい。

 

そんなことにも気づかなかった。

 

あとは数時間、深く眠ることができれば幸いだ。

立ち読み情報

漫画でわかるメンタルヘルス、といった類の書籍を古本屋で立ち読みしてしまった。

その書籍全般に関しては比較的親切な内容であったと思われる。

漫画のページと専門用語の説明をする文章のページに分かれていた。

 

心とは脳のことである、と断定したのちに、脳の働きを説明している項目があった。

 

脳のどの部分が何をどのようにつかさどっているかを知ったところで脳を自由自在に操れるわけではない。

しかし興味深い情報を得た。

 

感情、思考、記憶、知識、、、他(覚えていない、とりあえず4種類)

 

脳にはこの4種類以上の情報(という表現ではないかもしれない)があるらしい。

これらが統合されている状態が「正常」とされるのだろう。

 

何とはなしに、分析してみたくなる。

 

知識の中で思考する。

記憶がよぎって感情的になる。

 

感情を思考で抑える。

記憶を知識に変える。

 

記憶から思考する。

感情の波を知識として記憶する。

 

己の心に対する理解へ少しだけ踏み込めたような気がした。

報道と人権

普段は聞き流したり、別室にいたりしてまともに見もしない報道番組を約1時間半、ただの気まぐれで真剣に見てみた。

 

世の中には問題が山積みなのだと感じた。

 

報道など、人々が注目したくなるような誇張された見出しが並ぶだけのものだと思う。

その中で真意に近づこうとすることにとても疲れた。

 

精神疾患者がひとり、社会制度が良くないだの生きたくないだのとわめいたところでそんなものは取るに足りない。

社会とは社会生活を営むことができる大多数の人々を前提に成り立っているのだ。

そこに入ることができない私がそれに対し意見を持つことなどあってはならない。

強くそう感じる。

バラエティーな存在

今日は病院にいる。いつになく混んでいる。

私が通う精神科は予約制ではない。

悪天候であろうと、処方箋のタイミングの問題のみで大変に混雑する。

それにしても、待合室に座れないほどのことは初めてかもしれない。

 

なんとなく、であるが、今日は騒がしいような気がする。

院内からしばしば大声が聞こえる。

外をゆっくりと、独り言を言いながら歩きまわり、怒鳴り散らしているひともいたりする。

正直怖い。

病質がどうあれ、私にも過去にあった症状だ。

それなのにも関わらず、他人だと鮮明に怖い。

実際のところ私は私への恐怖が取り除けていないのだと思う。

 

これでも精神科通院歴10年にはなろうとしている。

専門的な知識はないが、精神科に縁がない一般の人より理解はあるはずだ。

いちいち視線を向けたりせず、想像する。

 

私には見聞きできない何かがあのひとを襲っているのだろう。

不安感が強いひとが歌っているのだろう。

心身ともに重く動けないほどのひとがやっとで病院まで来て涙しているのだろう。

10年がこんな半端な理解で情けない。

 

 

「(気が)おかしくなる」という表現がある。

近頃たまたま、バラエティー番組で何度か耳にした。とても引っかかった。

一般的に「おかしい」とは、精神を病むことを指しているのだと感じられる。

だからといって精神を病むという状態を軽々しく言葉にしたくはない。

あれらの番組で笑った人が今ここにいたら何を感じるだろう。

 

しかしそれをもって社会は笑いのネタにしているのだから、私たちは深刻さを排除した笑われる人生へ歩み寄るという選択肢も持たなければならないのかもしれない。

質の良い反動

ストレスとは違う、気疲れのようなものを感じることがある。

それは日常生活で生じ、たいていは日常生活で消滅する。

日常生活で消滅しなかった部分は蓄積させず、どこかで発散させることが望ましい。

 

私には近頃、旧友と会う機会が不定期にある。

彼女は多忙な中、時間を作ってくれる。

高校時代からの友人で継続して連絡がとれているのは彼女だけだ。

私が明らかに病気を発症してからもほどよく距離をとりながらずっと、私を私として扱ってくれていた。

どのような感謝の言葉で表したらよいのか分からないほどありがたい存在である。

 

彼女と会うと、気分が15歳は若返ってしまう。

若さ故のハイテンションが降臨するとでもいうのだろうか、喋り出すとお互い止まらず時間を忘れてしまう。

この上なく楽しい時間を過ごすことができる。

これが一種の発散だ。

 

そしておそらくは、15年ほど前時分からそうであったような気がするのものの、過ごす時間が楽し過ぎれば楽し過ぎるほどに、その時間が去った後にひどく落ち込んでしまう。

体力的に15年前のテンションを維持できるわけがないのは分かりきっている。

それでも何かを繋ぎとめたい気持ちと、反して現代に戻るべきである事実が入り乱れ混乱する。

 

発散のパワーが余って反動につながってしまう傾向が強い。

これは私の本意ではない。

そんな反動も一晩しっかり休めばおおかた取り除ける、質の良い反動であることに違いはない。

 

彼女のやり方

事業所が集まった法人として、という解釈でよいのか、少しズレているとは思うが、各事業所の活動報告を載せる冊子を年に一部発行しているらしい。

 

利用者の感想を片隅に載せることを企画した女性職員がたまたま、ひとりの男性利用者と私を指名したことがあった。

元にするイベントが手頃にあったためで、おそらく他意はない。

 

その女性職員は私からすると“癒しキャラ”である。

年齢は若く、少し天然っぽさを装っているように感じる時があるがテキパキと業務をこなし、利用者の皆からしたわれているように見て取れる。

私の計画相談等の直接の担当ではないため、個人的な深い話はあまりしたことがない。

 

「このB型事業を利用する切っ掛けとなったこと」という設問に対し、男性利用者はとても言葉を探していた。

彼の話に対しては、私は普段から大変興味深い。

「普通に働くということが分からなかった」といったニュアンスの言葉が彼の口から出た後しばしの沈黙があり、少し重くなった空気を和ませるような、彼の発信にたとえば“寄り添う”ようにおっとりとした口調で女性職員は「普通に働くってね、どんな感じでしょうかね」と合いの手を入れた。

 

「アンタのことだろう」

 

時間にして1秒にも満たない間に私の脳内ではツッコミを入れていた。

薬が変わる前の病状では0.5秒以内に口に出していただろう。

このときの私は端から必要以上のことは発言しないよう心掛けていた。その甲斐あって衝突することなく済んだだけである。

 

しかし内心根に持ち続け、彼女への不信感が生じてしまった。

 

順調に社会人経験と実績を積み、プライベートも充実しているようで、あなたの様な人のことを一般的に公私ともに順調というのではないですか?そんな状態で「普通に働くということが分からない状態」など想像の範疇ででもできるのですか。あなたは何故この道を志したのですか。そもそもが私たちのことを見下していますよね。そこが生きがいなのでしょうか。忙しく仕事ができる状態にある人は立派ですね。

 

問い詰めようとする言葉は尽きない。

 

 

どれだけ精神病患者の相手をするプロであろうと、人間を扱う人間である。

ましてや利用者たちより年齢が下であり、言葉遣いや言い回しの一つ、疾患への知識と認識の違いから気疲れすることも多いに違いない。

あの合いの手は、彼女のやり方の一つだったのだと思うことにするしかないと憤りを抑えている。

彼女は彼女の人生の中で何度も壁に当たり、道を模索しているのだろう。

もしくは彼女たちの仕事とは、普通どころではなくさらに上の業務なのかもしれない。