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理刹主義-躁鬱病と診断された女-

昭和生まれ、社会生活より閉鎖病棟生活の方が長い。病的被害者ではなく社会的加害者の自白。

死を恐れるのは人間だけ

仮に、ひとには感情があるから死を恐れるのだとする。

そのため古くから人々は、故人にはせめて死んだ後にはよい思いをしてもらいたい、本人が、死んだ後にはラクに存在したいと望むのだ。しかも永久という恐ろしい年月を。

 

それらはすべて妄想に過ぎない。

 

 

反して、本能が死を恐れるという考えがある。

人類となる頃より以前から、生物は突如として不平等におとずれる「死」を野生的に恐れてきたらしい。

しかしそれは長続きしない。

すぐさま偶像を崇拝したりする感情に踊らされ始める。

 

現代の生物にはどちらが当てはまりやすいのだろうか。

 

私はどちらかというなら、本能が死を恐れるのだと考えてきた。

 

たとえば突如、天災にみまわれ、隣人が命を落とそうとしていたとしても自らの必死の命をかけてまで助けるひとはどのくらいあるのか。

 

 

 進化の過程で、順序をたどってしまったのだというところに落ち着く。

もしくは視点が異なるだけで、内容は同じだ。

本能だけで生きていた人類が感情や精神を重んじるようになり、偶像崇拝、極楽浄土などの道が定着していった。

 

歴史の教科書の簡略版に過ぎない。

 

問題はどちらの視点に重きを置くかだ。

 

感情がなければ死を恐れない。これは私にとっては圧倒的に魅力的な悟りの片鱗だ。

 

魅力的、などと欲を表す時点で感情的であるというオチになるだろう。

どことなく質素に見えて、その内は大層豊かな「無心」というものを操作できるようになりたいと、欲を持ち始めた。

死別

親族が他界した。

母には兄弟が多く、その分おそらく、私は同世代の者より現時点で多く近親者の告別式に立ち会っているのではないかと思う。

立て続けになることも少なくなく、それの一番はじめは実父だった。

 

たまたまである。

近頃私は死ぬ意志を誰かに打ち明けたくて仕方がなかった。

ノートには「死ね」「死にたい」などの文字が書きなぐってある。

ただひとつ、もう半月で終わる今年を入院のない年にしたいというギリギリの意地で誰にも言わずにいた。

 

まずはじめに、代わってさし上げられたらと切望した。

 

その次に、しばらくしてから故人に対するさまざまな思いが巡ってきた。

 

そして現在、気が張っていると書けば聞こえはよいかもしれないが、妙なハイテンションだと自覚している。

 

身内が亡くなる度に、私の、たとえば心や精神は18歳の冬で止まったのではないかと明確に錯覚する。

知識や思考はいくらか身についてきた。

葬儀の相談等も慣れはしないが意見を出せる立場になり、不測に備えてゆったりと構えることができる(それは慣れなのか…)。

 

父親が他界した時のことは昨日のこと、つい、たった今のことかのように覚えている。

 

5限は私が好きな美術の授業だった。

製作に少々手間取り、片付けが遅くなった。どうしても思い通りになるところまでデッサンを仕上げておきたかった。

帰り道、いつものコンビニで飲み物と菓子を買い、駅前のベンチで一服していた。

 

雲ひとつない真っ青な空だった。

 

美術の片付けが長引くことはよくあることで、寄り道をすることは日常だから気にしない。

 

 

自宅に着くと母親と入れ違いになる。

病院から連絡だという。パートを早退してきたらしい。私にも来るようにと残して母親は大急ぎで病院へ向かった。

 

私は、父親の元へは見舞いにすらほとんど出向いていなかった。

病床の父親が言ったのだ。もう来るなと。

たった一度だったのかもしれない。わからない。その言葉はお前の顔は見たくないと、誇大されていた。

 

久しぶりの病棟で、病室も分からない親不孝者ぶりである。

たまたま通ったドアの閉まった病室から母親の叫び声が聞こえた。

動けなくなった。

 

 

 

 

私は父親の死に縛られている。

故人を偲ぶべきであろうところ、なぜ、こんなにも鮮明に父親の最期の日を思い出しているのだろうか。

 

あの頃からだいぶ経つ。

命日は来月であり、また誰かを連れて行くのではないかと、誰にも言えず、心から怯え、憎んでいる。

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物語と現実の交錯

死にたい

しかも動ける

 

この類の妄想は今年の間に何度もあった。

 

たとえば私が死んだら、私は英雄になるかのように強く思う。

 

今この刹那、その思いが果てしなく強い。

 

対策として頓服薬を3錠飲んだ。

気だるさと眠気をもよおすものだ。

しかし今夜はいくらでも飲みたい。

意識を失うまで飲み続けたい。

 

 

物語はいい。

どんな人物の心理も醜くも美しくも表現できる。

ただしその人物が真に受け止める感情などその架空の人物にしか分かり得ない。

そこを読み手が「想像」することで物語は分岐する。

 

たとえば私の感情を他人が想像するなら、それは醜いだろうか、美しいだろうか。

 

深く、浮かんだ場面がある。

就労継続支援事業所の職員の方に対し、とても静かな口調でたずねている。

「あなたは外からの刺激がある度に死にたいと思うことはないのですか」と。

 

しかしそこは精神科の診察室でもカウンセリングルームでもないということを把握する。

お門違いな問いかけは虚しく、相手を困惑させるだけだという想像に収まる。

 

私はどうしたいのだろう。

眠らなければならない。

深く、できれば長く、身体が細かく震えているような感覚を無視して、眠りにつかなければならない。

 

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無責任な対話

なんだかいつになく喋り過ぎた。

世間話に過ぎないものの、何事にも気疲れとはあるものだとしみじみ感じる。

実際、半分以上は頭が動いていなかった。

 

そんな中で、私は複数の人間と交流を持っていったほうが良いだろうという提案をいただいた。

軽く受け流してしまったが、ありがたくもあり、ユウウツでもあった。

必要以上の人数のひととは関わりを持ちたくなくなっていることに気付かされた。

それは再び玉砕することを恐れるからであると考えられる。

ひとと深く関わり、新しく友情などを育むことを想像すると、なんだかもうそれだけで死んでしまいたい。

 

人々と関わりを持たなければならないくらいなら、死んでしまいたい。

 

比較的明確な自殺願望のビジョンだ。

 

私は人々と関わりを持つことを切望してきたはずだ。それなのに、やはり気疲れが効いているのだろうか。

 

引きこもっていれば外に出たくなり、外に出ていれば引きこもりたくなる、極端な「無い物ねだり」なのだろう。

同じように、生きていれば死にたくなるのだから、死の想像、および妄想が鮮明になれば生きたくなるはずだ。

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冬眠癖と睡眠管理

このところ睡眠時間をうまく管理できない。

何時間寝てもずっと眠いままだったり、真夜中に何度も覚醒してしまったりと、悪循環を繰り返している。

起きている時間もなんだかぼんやりしてしまう。

 

理想は23時に就寝し、7時に起床するというリズムだ。

これを徹底しようとした矢先に狂い始めた。

気負いすぎている感は否めない。

作業時間はかろうじて乗り越えるものの、帰宅すればぼんやりし続けている。

どこかでしっかりとリズムを身に付けたい。

 

 

季節はすっかり冬になった。

何年も自宅にこもっていた、もしくは病棟で過ごしていたため、日々季節の移ろいを肌で感じることがとてつもなく久しぶりだ。

なんとなく生き物らしい感覚を新鮮に感じ取っている。

春から夏に変わる頃よりも、秋から冬に変わるこの頃の方が毎朝の変化が顕著のような気がする。

 

「冬は冬眠する」などと笑えない冗談を言っていた今までと今年は違うはずだ。

しかし「冬眠癖」が抜けないのだろうか、眠気と倦怠感が抜けずにいる。

だからといって決してユウウツなわけではない。

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私的外出規模

かねてより興味のあった文化的事物の、いわゆる専門店の催事に思い切って赴いた。

 

県外へ出る頻度は相変わらずで真夏に友人と会った時以来かと記憶する。

街は冬の寒さにも関わらず人々で溢れかえっていた。

どうやら体調は悪くはなかったらしく、行き帰りで平均乗車率70%といったところ(主観)の電車にも動じることはなかった。

雑踏のに紛れれば、己の社会的身分など忘れるくらいの心地よさがあったほどだ。

 

工賃は一般の方が耳を疑うほどの額だ。

それを古い財布に入れて"工賃貯金"していた。

その貯金からは友人に会いに行き喫茶店で過ごしたり、近場のヘアサロンへ行ったりしたことがある。

その時には毎週にでも楽しみたい時間を共有したり、一般的に所得があれば毎月にでも受けたくなるようなサービスに陶酔したりした。

 

日用品、消耗品以外は購入しないと決め戒め始めてから約10ヶ月、私は私なりによく耐えたとも思えた。

同じ通りを何往復もし、行き交う人々のトレンドじみたファッションを目の当たりにしながら街並みを眺め、なんとなく好みのような気がする衣服やアクセサリー、テレビで流れているような話題の食べ物などに気を惹かれては衝動を抑えつける。

そして目当ての店で普段なら考えられない、生きるために必要のない雑貨と、大切な友人へのささやかなクリスマスプレゼントを購入をした。

 

たとえるなら、小学生の頃、月数百円の小遣いを貯め続けて大好きだったアイドルのCDアルバムをやっとの思いで買った感覚に似ている。

 

そこからやり直すのだ。

 

数年前にあった衝動買い行為は本当に耐えるようになった。

年金も生活費に当てることが出来ている。(これは当然のことなのだが…)

しかしそれらが出来ていなかったことが事実だ。

誰に謝ればよいのかも分からない後悔にさいなまれることはいつの頃からか激減した。

 

この度の買い物で得たものはその商品の額以上にあったような気がする。

やや誇大妄想があることも否めない。

私は病気、あるいは病的なのだ。

 

普段歩かない距離を歩いたこともよいことだ。

だいたい年に2回くらい、こんなことがあっても悪くないような気がする、ことにしておきたい。

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メンヘラ以上 精神鑑定未満

「メンヘラ」という言葉がある。

定義はいまいち分からない。

メンタルヘルス(精神の健康?)」が語源で、「メンヘル」と略され、人を指す「er」が付き「メンヘラー」、「メンヘラ」となった、らしいことにしておく。

友人の中にはこの言葉を嫌悪する鬱病の者もいた。

確かに馬鹿にされているような感覚があり気に食わない言葉ではある。

 

しかし一説によると、メンヘラとは精神障害者を指す言葉ではないらしい。

精神障害よりも程度は軽いとされ、おそらくは精神科にかかることは避けたいが自傷行為が密かな趣味であったり、「気を病んでいる」ことをアピールすることがストレス発散になったりする人のことを指す、らしい。

※「気を病む」の意味は理解できない。

 

 

私は自称メンヘラであった。

私自身には私自身が気に食わない代名詞を付けておくことが相応しいと考えていたためだ。

しかし諸説あろうが、メンヘラという言葉にあまりに多面的な意味合いがたるため、“実際の”メンヘラの方々に対して申し訳ないような気がしてきた。

現代ではふさわしくない表現とされる、「気狂い」が私に当てはまる形容詞なのだと思う。

 「基地外」などと当て字にされていることも見受けるが、やはり馬鹿にしているとしか思えない。

ただの言葉遊びだろうか。

 

「精神鑑定」というと一気に仰々しくなる。これは裁判用語になるのだろうか。

私はおそらくは正常とされる精神を持ち合わせていない。しかしそれは鑑定するまでもないことだ。

 

メンヘラ、気狂いと来てそれらの次に当たる言葉が見当たらないため精神鑑定対象者という言葉になった、間は何だろうか。

精神不安定者、精神異常者とでもしておこうか。

 

何にせよ、精神鑑定は私には必要ない。

法を犯せばその罪を償わなければならないことは理解している。

ただし自殺がそこに含まれるのか、含まれたところで償いようがないことに開き直っている。

鬱状態約2週間

なんとなく気分が上がってきている。

ひどく動けなかったのは2週間ほどだ。

(その中でも細かな波はあった)

このサイクルを繰り返すのか、なんとなく上がった状態でしばらく保つのか、さらに上がってしまうのか、いくらか先を予測して危機管理ができればよいと考える。

 

先々のことを私自身にとって都合の悪い方向に想像することは比較的得意だ。

何パターンか想像しておけば動けるのではないかと思い込むことはおそらく、悪いことではない。

 

主治医からは以前よりは良い方向へ向かっていると言われた。

以前がどれだけ悪かったのかと思わざるを得ない。

 

作業所の存在は私にとってとても偉大なものになった。

明日からまた継続できればと切に願う。

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趣味を持つことと金勘定

堂々と新しい趣味を持ちたい。

ただしそこに金銭は発生してはならない。

 

このことが堂々巡りしている。

 

切っ掛けは携帯電話料金の見直しと年単位での料金計算だった。

 

 

春先から密かに、底値に近いデジタルカメラが欲しいと考え始めていた。

「趣味:写真」というものに憧れを持つ。

衝動的になっては無理やり抑えつけ、また買いたくなっては金銭の計算をして非現実的なものだと思い込ませようとしてきた。

 

数年前ならばためらうことなく、あるいは衝動的に購入していたと思う。

近頃はたとえば360円の化粧品(消耗品であるはずなのに使用頻度が少ないため何年も保つ類)1つを買うことにも躊躇する。

 

なんと極端なことだろうか。

 

そもそも何故、趣味に金銭が発生してはならないのか。

 

せっかく趣味になったとしても周囲に隠さなければならないからだ。

それでは嫌だ。堂々と趣味を披露し、うまくすれば共有したい。

 

最低限文化的な生活がなんたるか、年金生活の身で省みることが多すぎるのではないか、趣味は文化とは異なるのか、様々な設問が次々と浮かぶ

 

きょうび携帯電話くらいは持っていないと何かと不便である。自宅に固定電話もない。

そのためこれは文化的な生活に必要なものと判断する。

パソコンは貰い物で、テレビやゲーム機能などはなくて構わない。

これからの時期、暖房器具はできれば壊れないであってもらいたい。

電子レンジ、冷蔵庫、洗濯機、照明器具、寝具、衣服、不足はない。

 

追いかけていくと、結局また、これなのだ。

 

 

「全国民の7割以上が所有している物とは何か」

 

 

 

最新のスマートフォンはカメラ機能が優れており、私が欲しかった、いわゆるコンパクトデジタルカメラの性能と素人目には遜色ないのだというではないか。

 

しかし果たして、私の現在の性格と身分に対して最新のスマートフォンが必要であるのか。

 

はっきりと、必要ではない。

 

つまりはっきりと、新たな趣味を堂々と持つことができない。

 

比較的深刻に落ち込んでいる。

理解の仮面

近頃ぼんやりと思う。

私は躁鬱病のなんたるか、双極性障害と称されI型、II型と分類されてからのなんたるかを真にほとんど理解していない。

だから排他する。

 

医師から言われること、インターネットで検索をすること、医学書を読むこと(図書館)、どれをとっても、いまいち、自分の言葉できちんと説明できるほどの理解がない。

だから偏屈になる。

 

ありふれた言葉ではあるが、私のことを一番理解していないのは私自身であることが浮き彫りになってきたように感じる。ようやくだ。

 

何から理解すればよいのだろうか。

 

まったく見当がつかない。

 

 

なんとなく浮かぶ設問を挙げる。

あなたは生きたいのか、生きたくないのか。(「死にたい」ではない)

 

どちらかというと生きたくない。

 

その理由を述べよ。

 

・・・・・。

 

 

理由も曖昧に生きたくないという状態は思春期頃からほぼ変わらない。

脳の発育が止まったのだろうか。脳とは衰えるものだ。

そこまで遡って自己分析をする必要はあるのだろうか。

 

また、心や精神についての概念に激しく疎い。

何度読んでも理解に苦しむ。

 

根は真面目だと言われることが多かった。

実際は生真面目、馬鹿正直といった表現の方が相応しい。

ただし素直とは違うのだろう。

 

素直になる、類義は正直になる、だろうか。

 

正直になるなら、たとえば私は鏡越しに見える私のことを常時ひどく憎く感じる。

不意に鏡が見えてしまった時に衝動で実際に鏡を割ったこともあったような気がする。

たとえば、生きたくないのではない、死にたいのではない、私を殺したいという表現がもっとも当てはまる。

 

自責の念にかられることなどは誰にでもおとずれることだと思う。

人々はそれらを四苦八苦して乗り越える。

おそらく私の場合、乗り越えずラクに抜け道をしようとして、しかもそれが賢明であると思い込み図に乗った挙句、抜け道が見つからず乗り越えるべき山の麓をどこまでも眺めている、それだけの存在のような気がする。

 

なんだか昔話にありそうなたとえだ。

 

ぼんやりとしたたとえ話は浮かぶのだ。

鮮明な視野が欲しい。

私には私が見えないとうたった哲学者や芸術家は史上、星の数ほどあっただろう。

どこかに糸口があるはずだ。しかしながら文化的な事物に触れることは私にとって激しい躁転の切っ掛けになることが多いためじゅうぶんな注意が必要である。

 

 

私は私をどうしたいのか、すべて私が決められる。

こう書くと誇大妄想のようにも取れる。

学生時代、特に倫理社会で取り上げられる思想家の授業があった時期など、この程度の定義ならばその時代に存在していれば私が導き出せていたと本気で思っていたこともある。

自信過剰にもほどがある。

 

 

時刻は26時を過ぎた。

考えを巡らせることに疲れてきた。実際は頭蓋骨に守られているのに、脳がむき出しになり凝り固まってチクチクと痛むような錯覚を起こす。

 

実は密かに、徹夜で躁転するのか実験しようかと考えていた。そう考える時点で軽く躁にあるととらえるのが妥当である。

しかしその実験も難しそうだ。

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