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理刹主義-躁鬱病と診断された女-

昭和生まれ、社会生活より閉鎖病棟生活の方が長い。病的被害者ではなく社会的加害者の自白。

人格肯定

性格、人格を不特定多数の人間に認めてもらいたいと強く思った。

今の私はおそらく躁状態に近く、しかし誇大妄想もない。

非人道的なことを考えるわけでもない。

「なんとなく元気で楽しい人(ただし少し抜けている)」であるだけのような気がする。

正直なところほぼ、理想的な人格にあたる。

これは、過大評価なのだろうか。

割と長い事、病気と診断されたままであると分からない上、どちらかにするならば消極的にとらえがちである。

第三者から評価されることこそが、この世において最も重要な生きがいに繋がるのだと思う。

自分は自分だと貫いたところで、その裏では他者の賛同や協力、賞賛がなければ事は成せない。

その求める規模が大きいとされるか小さいとされるか、これもまた他人が主観で決めるものだ。

私の求める規模、「性格を認められい」とは、たとえば思春期の少年少女が抱くもののように小さいのではないかと思う。

ここもさらに謙虚になるべきなのだろうか。

 

何もしなくても年月は流れ、年齢は重なる。

重なる毎に、一般的にその規模は大きくなり、基盤となる小さい規模の塊を見失いがちになるのだろう。

 

私は、実は、最近の私のことがあまり嫌いではない。

しかし「私だけが認める私」では不安定である。

たとえば明るく振る舞い過ぎたのではないかと不安になる。

受け入れられてると感じないこともない。

このまま継続することができれば、おそらく、私の望む規模の結果は感じることができる時が来ると前向きに信じたい。

 

そんなことを考えていたら涙が流れた。

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対人輪廻

また考えている。

私は、過去に私をさげすんだ人たちを強く憎んでいる。

憎み続けている。

その思考を無視することができない。

反して彼らの中ではキッチリと、私の存在など遠い過去のものになっていることに腹が立つ。

連絡先などはこちらからもかなり前に抹消したものの、怨みは残り続ける。

あの頃は楽しかった、などとは到底ならない。

どうなれば、おもしろいのか。

ひとえに、彼らに不幸になっていただきたい。

過去の携帯電話などのデータ、また、破棄していない郵便物などからその方々の個人情報は得ようとすれば得られる。

特定の人物に対して特定の殺意を抱き続けること、これは罪になるのだろうか。

出来れば生きながら苦しんでいただきたいため、本人に直接危害は与えない。

どのように苦しんでいただくか考える。

考え続けてしまう。

そのうちに、実行しそうな気がして怖いのだ。

 

私は私の人生、あるいは親族の人生を軽んじている自覚がある。

私が犯罪者になったところで何も困ることはない。

精神鑑定などいらない。弁護もいらない。

人が人を傷つけてはいけない決まりがあることは知っている。

その決まりを破れば、つぐなわなければならないことも知っている。

知っている上で、遂行したいと考え続ける。

犯罪以外の何でもない。

過去を過去だと感じることが出来るようになれば、おそらくは、このようなバカげた、くだらないとされる感情に負かされることも少なくなって行くと思いたい。

では、どうすれば過去を過去にすることができるのだろうか。

まったく見当がつかない。

どれだけ忘れようとも、彼らは私の中に根強く存在しているのだろう。

 

私は、過去の私と交流を持っていた人たちのことが大好きだ。

何処かで復縁を望み続けている。

その願望を諦めることができない。

彼らの中で私はキッチリと「精神異常者」として扱われ排除されたのだという事実が悲しい。

それまで以上に負担をかけてはならないと自ら連絡先を抹消したことを後悔し続けている。

あの頃は楽しかった、それだけのことでよいのだ。

どうすれば、それだけのことになるのか。

ひとえに、彼らに精神疾患への誤解めいたものを与えてしまったことを懺悔したい。

過去の携帯電話などのデータ、破棄していない郵便物などからその方々の個人情報はある程度知り得る。

私が傷付けた特定の個人に対して今更どんな顔をして弁明するか、これが大きな課題となる。

出来れば過去のあれこれは病状だったのだということを真に知ったうえで受け入れてもらいたい。

どのように説明するか考える。

考え続けても、たとえば表面上納得をいただいたところでひどく虚しい気がしてならない。

そのうちに、実行する気力など失せるのだ。

 

私は私の人生において、対人関係はうまくやってきた方だと自負している。

だから過去にすがるのだろう。

精神疾患への偏見がなくならないことは仕方がない。

離れて行く友人があることは当然のことだ。

ましてや付き合いが長ければ長かった友人ほど、私から離れたくなる心理も何となく読める。

自信過剰であること以外の何でもない。

過去を過去だと感じることが出来るようになれば、おそらくは、このような堂々巡りから抜け出せると思い込みたい。

では、どうすれば過去を過去にすることができるのだろうか。
まったく見当がつかない。
どれだけ忘れようとも、彼らは私の中に根強く存在し続けるのだろう。

まだ、考えている。

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ベルギー行こう

安楽死を目的に生きることが悪くないような気がした。

その過程で、おそらくとても重要な別の目的ではなく、目標に気がつくことがおおいに予想されるからだ。

片道だけで構わない、しかしプランとして出るものは2泊5日の旅、安くて10万円ほどからである。

なかなか非現実的な額だ。

私は生まれてこのかた、海外に出たことがない。

以前の企業で上司から、若いうちに海外に行くべきだと勧められたが残念ながら若いうちに閉鎖病棟へ入ってしまった。

だから、視野が狭いのだろう。

狭い視野からは、割と細かいものを見て来た気がする。

しかし長いようで短かった。

 

1人でいると気が触れているかのような状態におちいることは相変わらずで、それを軽く客観視している自分がいるかのような錯覚もある。

そういった時、合法的に死ぬ術を模索する。

今回はたまたま安楽死にたどり着いた。

 

スイスが有名であるが、様々な観点から、ベルギーに行ってみたい。

 

こう書くととても美しい、たとえば若い女性が抱く夢のような感じがする。

加筆する。

 

日本でマンションから飛び降りることよりベルギーで注射を打つことの方が非現実的であり、物理的にも遠い。

ありあまる想像力を短時間で大いに働かせ、人生で一度きりの「死」に向けて大きく駒を進めた気になっただけの話である。

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拝啓 今を存在することが苦痛な私

 

つい一刹那前の私は安定していました。

それは、事業所の方々との交流があるおかげです。

とても素敵な方々です。

どんな時も、私は環境には恵まれています。

夏がこんなに暑いことも久しぶりに知りました。

9年前の品川の夏とは違うとは思いますけど、今年は暑さをとても感じます。

 

私はひとつの括りとして、笑うために生き、生きるために笑うのだろうなぁと考えつき、ある人に話したことがあります。

あなたも知っている通り、私は表向きひょうきんです。

周りの人のことを笑わせることが好きです。

笑われることでも構いません。

誰かが笑ってくれること、一緒に笑うこと、それらが今は身近にあるように感じます。

どうか暑さ、その他諸々に負けず外に出て笑ってください。笑わせてください。

私にはあなたのことが見えません。

あなたはこの私を見て嘲笑するでしょう。

それでも、今の私は構いません。

あなたは一刹那後のあなたに微笑まれるよう、存在してください。

 

敬具

陰口の善意

インターネットは嫌いだと過去に記した。

それでも、百科事典を引きに図書館へ足を運ぶより、パソコンやスマートフォンで検索をする方が一般的だ。

 

先ほど、不意に、生きたままの臓器提供が可能であれば何らかの行動を起こしたいと思いついた。

前提として臓器提供カードなるものは十何年も前から財布に入れ続け、親族の同意、署名ももらっている。定期的に確認もしている。

それでもテキパキと、指先は動いた。

 

諸説あるものの、海外では生きたままで眼球や他の「臓物」を移植手術に使うということが横行されているらしい。

また、国内でも闇とされる世界に入れば臓器売買など日常にあるとのことだ。

なかなか興味深い。

それらの入り口を探ることもまた、インターネットを利用する他にない。

これも既に一般的な話だが、より信憑性の高い情報を探し当てなければならない点が弊害だ。

 

ついでだったので「精神障害者  死ぬべき」という検索も実行した。

どうやらそういった精神状態にあった。

少しの時間で、あらゆる視点からの「真意」を読むことが出来た気がした。

おおまかに、死ぬ想像をする私の背中を勢いよく押してくださる文書や、気分を逆なでされるような表現が多くあった。

そうすると、不思議といくらか気分が安定したような気がした。

おそらく少しだけ、自らを客観視することができたのかもしれない。

 

このウェブログも含む、匿名のインターネットには一般的に責任能力がないとされているように感じる。

事件を起こす具体的な予告などを書くだけで警察沙汰になることは、表面化している件は少ないだろう。

しかしここにこそ、真意、本音があり余っていると、私は確信する。

面と向かって当人には言えない事柄を、堂々と吐き出しているのだ。

意見者の本心に他ならない。

現代の日本に、面と向かって本心を明かしてくれる人種がどれだけいるだろう。

インターネットが普及するより以前、私は陰口というものが嫌いであった。

歳月が経つにつれ、それを否定することに疲れた。

この文書も立派な陰口であることにもはや負担もなく麻痺している。

 

インターネットは嫌いだ。

ただ、やはりとてつもなく便利な本音が置いてある場所である。

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妄想や幻覚ではないらしい

線路に入る

高所から落ちる

首を吊る

胸を包丁で刺す

などの図、または映像が鮮明に浮かぶことがある。浮かび続けることがある。一度も浮かばない日はここ何年も、ほぼないような気がする。

これらは一体何だ。

そうしなければならないような気になる。

そしていずれかを実行した後の自分が英雄かのように感じる。割と疲れる。

 

よく思い出すと、主治医からは強迫性症状だと言われたことが何度かある。

浮かんで来ることを我慢することはない、と、文字列のみからでは誤解が生じそうなことを言われたことも何度かある。

 

より強く、今にも飛び降りそうになるのは、決まって休みの前の日だ。

疲れていることは自覚できるようになったかもしれない。

やはり、何らかの発散方法を見出したい。

不安感疲労感

体力がもたない。

10年近く社会的な生活から離れ、閉鎖病棟と自宅を行き来し、突然(表現によってはようやく)、ほんの少しではあるものの生活に規則性が生じたのだ。

たった2ヶ月の継続である。

2ヶ月経過しようとも、社会的な生活の何たるかを思い出せない。

しかし1ヶ月保てるかも不安であった生活環境にある程度順応し、自らの体調も見誤る日々には限界がおとずれる。

それは間違いなく近い。

そう感じる。または思い込んでいる。

後者であれば幸いだが、その考えそのものすらどちらなのか決断できない。

いずれにせよ、2月中頃まで閉鎖病棟に居た者に体力面の限界があることは確実だ。

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同居と「唄」

寝付けない時、早朝に目が覚めた時、

1人でいる時、やることが何も見当たらない時、

外から通行人の声が聞こえる時、

自然音さえ耳障りに感じる時、

テレビ報道が聞こえる時、

過去の出来事が脳裏をよぎる時、

生きるために必要ではない買い物をした後、

空腹ではないのに食物を摂取した後、

知人にメールを送った後、他、

 

ひどく己が憎く、殺したくなる。

 

これは、一種の性格である。

小中学生の頃からは比べものにならないほど、社交的な性格になった。

社会的な規則も道徳も学生時代に比べればいくらか向上していると過大評価する。

他にも細かに変化はある。

しかし「自分を殺したい」点ばかりは思春期頃から根強く変わらないのだ。

そろそろ諦めて自分の人格として受け入れなければならない。

殺したい自分と、死のうとすることは苦しく耐えられないことだと知っていて逃げる自分をうまく同居させなければならない。

その気持ちが浮上するたびに騒ぎ立ててはならない。

自発呼吸と同じようなものなのだから。

 

ある曲の歌詞の一節がたまらなく当てはまると感じたのは20年近く前だ。

 

唄

 

 


BUCK-TICK 唄 2008

 

 どうして生かされてるのか この俺は

 そうだ狂い出したい

 そうだ叫び出したい

 生きてる証が欲しい

 逃げ出す事も出来ない

 立ち止まる事も知らない

 生きる事は出来る

 消えてゆく術知らない

 消える事は出来る

 生きてゆく意味知らない

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通常の抑制力(通院日)

7年ほど診ていただいている、主治医の見解である。

どうやら、私はほぼ「通常の人」に近くなりつつあるらしい。

どれだけの誇大妄想があろうとも、希死念慮が根強くあろうとも、多かれ少なかれそれらは元来、18歳頃までに形成された心が持ち合わせているものであり、また、ストレスによる症状に過ぎないため無理に抑える必要はないという助言をいただいた。

ただし今は身体が比較的動ける時期であると思われるためなだけに、今後、どうしても動かなくなる時期はまた来るだろうとのこと。

「通常の人」に近いという自覚はほぼないが、「通常」を装えるようになってきたのはよい傾向かと捉えた。

装い続けられれば問題はない。

「異常」とみなされた部分は抑制が効かなかった部分であり、それを隠すことが出来るようになってきたため「通常(正常)に近い」と判断されたのだろう。

 

装っているのだ。

 

私はもしかしたら、真に初めて、日本社会における一般的な成人の心理を知ることができたような気がした。

現在、私は私自身の心(という観念は分からない、心は脳にあるものだと考える)に不便さを感じる。

私にとって「かなりの我慢」をし続けているからだ。

 しかしその「かなりの我慢」が、「通常」に近い一般的な常識だったのだということに初めて気付かされた。

「通常の人」はこれだけ、さらにはこれ以上の我慢をしながら生きているのだ。

そんなこともできない、気付きすらしなかった、なんと情けなく恥ずべき生き物なのだろうかと自分に呆れ果てた。

 

以前より、主治医の意見を鵜呑みにはしないよう心がけている。

これらは医師の意見をもとに、私が考察した内容だ。多少ねじれている可能性があることは承知している。

さらに考察を進めると、企業に勤めていた頃、日々、精神的にツライと表現するよりは、人格を壊されているといった感覚があった。

業務内容はそれまでに望んで来たものであったし、どれだけ罵られ、存在を否定されるような言葉をかけられてもツラくはなかった。

それは私の仕事の要領、技能があまりにも未熟であるためだということが明らかだったからだ。

そのうちに気分と思考が分裂し、良識を見失ったのだろう、と記すと、なかなか哲学的なように見える。

しかしこれでは前述の「心」と「脳」が別のものであることを裏付けてしまう。

納得がいかない。

本来別のものであるという一般論があることは認知している。ただ、それを真意も知ろうとせず使い分けることに抵抗がある。

忍耐力が一般より足りな過ぎた、と書くだけでことは済む。

企業から離れて10年近く、ゆるく、甘え、なんとなく呼吸をしてきた。

 

生きることの大半は抑制することなのだと、ほぼ、義務教育で身につくようなことを最近、実感した。

不満足な愚者

「満足な豚であるより、不満足な人間である方が良い。
同じく、満足な愚者であるより、不満足なソクラテスである方が良い。

そして、その豚もしくは愚者の意見がこれと違えば、それはその者が自分の主張しか出来ないからである。 」

 

倫理社会の授業で衝撃を受けつつ、どこか一押し足りないと感じる言葉であった。

現代は便利だ。

うろ覚えの哲学などが関連で検索できる。

 

別で、タロットカードの「愚者」の意味を最近、ある映画を見て知った。

諸説あろうが、その映画では「愚者」とはただの愚か者ではなく、「どんなことでもできる、何にでもなれる可能性を秘めた」最強のカードだと語っていた。

こちらは検索すると位置や組み合わせで意味が変わっていたので私の記憶のまま記載する)

 

業界の違うものを混合させ、理屈を立てることはお門違いである。

その上で、これはなかなか面白い混合哲学が生まれるのではないかと考えた。

 

「私はただの豚であるが、満足を知らない。

自分の主張すら出来ない人間であるよりはましだ。」

 

高校時代からだいぶ経つものの、なんとなくスッキリした。

ミルに云わせれば、あるいは哲学を志す方々、功利主義からすれば、きっとまた私はただの「愚か者」未満であろう。

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