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理刹主義-躁鬱病と診断された女-

昭和生まれ、社会生活より閉鎖病棟生活の方が長い。病的被害者ではなく社会的加害者の自白。

いい子のじんせい

物心ついた頃から、私は「いい子」でいなければならないと思っていた。

「いい子」ではない私には、その当時からこの言葉を理解していたかは別として、「価値がない」と思い込んでいた。

その言葉では難しい。いい子でいなければ、誰も私の相手などしてくれないと思っていたというのが適正かもしれない。

少女が思い描くいい子とは。

 

両親のいいつけを守る子。

本当はピンク色のものが欲しくても、弟も使えるように黄色を選ぶ子。

友だちと喧嘩をしない子。

わがままを言わない子。

 

進んでお手伝いをする子。

宿題をさぼったりなんて絶対にしない子。

テストで百点満点を取るのが当たり前な子。

何もかも立候補する子。

外で元気に遊ぶ子。

 

学年トップレベルの成績を取り続けること。

いつも控えめであること。

小遣いを無駄遣いしないこと。

部活動を休まないこと。

門限を破らないこと。

親が胸を張れる進学校へ入学すること。

 

 

すべてが、私の本意に反していたような気がする。

しかしそうするしかなかったのだ。

そうしない私には価値がないのだから。

そうでない私のことを好きでいてくれる人はいないのだと信じて疑わなかったのだから。

 

それらが崩れたのは高校2年の夏だった。

部活動に力を入れ過ぎて勉学が疎かになっていた。

その部活動さえも投げ出さざるを得ない状況に追い込まれ、というより自分で追い込み投げ出し、それまでに築いてきたすべてを上書きしなければならなくなった。

 

筋金入りの「仮面いい子」は、何かにつけて自己犠牲に美学を見出すようになる。

途中から、いつの頃からか自己犠牲と自傷行為を見誤っていった。

 

晴れて、世にいう精神障害者は誕生していたのだ。

 

誕生した自己をさらに否定し続ける年月は流れた。なぜ否定するのか。私は「いい子」でなければならないからだ。

 

 

ちょうど10年前の4月、私は改めて新社会人としてデザイン事務所に所属していた。10代の頃に父親が他界したため一度社会に出ている。デザインは希望であり、新たな門出であった。

しかし間もなく、不眠による体調不良が切っ掛けで退職に追い込まれることになる。

 

まるで昨日のことかのようだ。

 

街を歩く真新しいスーツに身を包んだ若者たちを目にすると、様々に思い出されることもある。

しかしそれは、昨年までの記憶とは明らかに異なってきている。

私は再びはたらく喜びを知り得た。

何もかもが福祉のサービスによる恩恵であることに感謝を忘れず、10年遅れの春を満喫したいと思う。

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責任逃れしないために

感情か何かの制御が極めて困難になることが近頃ある。とてもいい加減であった時期とは少し違ってきている。

寺に坐禅をしに行く計画はゆるく立てているもののまだ先の話で、それまでなんとかやり過ごさなければならない。

 

テンションの高さを毎日数値化している。

10段階で、1が鬱状態、10が躁状態とする。

主観でしかないが、数値化し発表することによって戒めることができる場合もあるため重宝している。

 

4である時、いわゆる「普通」の状態であると見定めた。何故か5ではない。

ぼんやりとしていると自覚する時は2〜3、動けない時は1あるいは0、6〜8は調子に乗っていると自覚する時で、うかつなミスをしたり話し声が大きかったりする。

 

これが突発的に10あるいは11以上になることが稀にある。それは徐々にではなく急激に変化するもので、様々な考えが次々と浮かんでは消え、浮かび続け、目を見開いたまま多動になる。

私自身に出来ないことなどないと強く思い込む傾向が強く、そんなことはあり得ないと嘲笑しながらも信じて疑わなかったりする。

 

そんな時に人に会ったりすることはよくないと今まで考えてきたが、新たな手段を探ることにした。

 

外出し、とにかく必死に作業をするのだ。

家事ではなく作業所で人々と共に行うことが効果的で、時間内目一杯集中する。

そうすることで犯罪的な考えや自傷を促す考えが消滅し、比較的健全な思考を取り戻すことができた。

この発見は大きかった。

 

精神的に不安定になるのは季節の変わり目だからだと言う医者や患者がいる。

何らかの理由を付け加えなければだれもが納得してくれないからだけだろうと私は思う。

 

近頃不安定であるのは、寒暖や気圧の変化が激しいためだ。

 

そういうことにしておけば、責任逃れができる。

果たして、それでよいとは私の本質は思っていない。

 

表向きは季節の変わり目だから〜などと言っておけばよい。

内心どこかで、不調の際の工夫を試し続けることが就労継続支援を利用する私には課せられている。

メンタルの強さ

おおかた、自らの生き死にに関わらない苛立ちは無駄である。

インターネットを多用していた時代に交流のあったアカウント名などに関する無駄な記憶力を失くしたい。

なんとなく思い立つ時がある。

それらが健在であることに、ほんの少し腹が立つ。

だからといって生き死にに干渉することは近年ない。ないことにしたい。(つまり昔は腐るほどあった)

 

顔が見える交流において、自らの生き死に関わる苛立ちは極めて少ない。

 

ひとりでいるとき、苛立ちに翻弄されることがまた増えてきた。

 

最近のテーマはパラリンピック精神障害者が出られない理由である。

 

アスリートを特集した番組を見ると、「メンタルが強い」という表現が多々ある。

必ずひっかかる。

容易く「メンタルが弱い」という表現も出てくる。

それは…何だというのだ。

 

日本人は「メンタル」と「精神」の意味を使い分けているのだろうか。私は使い分けることができない。

仮に使い分けなくてもよいこととする。

次には「弱さの中の良さ」などという講義が始まる。

それには侮蔑の心得が隠されている。

 

なんだか躁状態のときに、精神障害があってもスポーツはできるということを世に知らしめたいと強く考えた。競歩で日本の代表的な大会に挑むというところまで構想は練られた。

その時の私は既にテレビ番組の特集に組まれ、誰かの作為によるヒロインと化している。

そしてこう言う。

 

精神障害者が世界を目指してはいけないのですか」

 

いわゆる宗教妄想の類であろう。

 

 

ひと個体には向き不向きがある。

たとえば人生とは、体力と精神と金銭を使うゲームなのだ。

そうしたとき精神とは、とりわけ芸術の分野に追随するのではないかと思わざるをえない実在の人物も多い。

そういった場面で発揮される「メンタルの強さ」はスポーツのそれに引けをとらないだろう。

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いらっしゃい不安定

なんだかソワソワする。頓服薬を追加した。

いつのまにか、体調がよくない。

いつのまにか、なのだ。

 

今度こそ鬱転のデータを取ろうと思っていた矢先である。

堂々と情緒不安定になっておいて、きっかけが不明とは何事だ。

 

なんとなく、体調は鬱へと変わりつつある。

証拠は風呂に入ることがとてつもなく億劫であること、のみになる。

ひとと話をすることで緩和されるのは以前からの傾向であるが、それが持続しない。

真冬だということを忘れかけていたかもしれない。

動けていた方が例年から比べれば異常で、儲けたものだとすればよい。

 

こんな時はただただ時間が過ぎるのを待つしかない。ひとと会っても一過性の安定しかないのだから、お手上げだ。

ありのままの暴走

「ありのまま」を考えていたら結果的に制御するということになった。それも、今までは制御のうちに入っていなかった部分まで含まれるため一層しんどいような気がする。

 

そもそも「ありのまま」が分からなかった。

私はたとえばこうありたい、こうなりたい、こう見せたいという私自身を創り、常に演じてきた。そうでなければ日本における外界で生活を送ることができない。

 

なぜできないのか。

思想があまりに犯罪的であるためだ。

 

奇声をあげたい。

あいつを殴りたい。

あいつって誰?

あいつだよ、何笑ってんだよ頭にくる。

死ねよ。

お前が死ね。

なにかを解剖したい。

あ、そうだ。

ひとを殺してみたい。

だれなら迷惑が少なくて済むのか。

そうか、やはり私だ。

これから試しに私を殺してみよう。

 

だいたい、近頃は考えてたとしても頻度が極めて少なかった事柄が溢れ出てきた。

放っておくことができるキャパシティをはるかに超える考え、想像、妄想、悪夢、幻覚まがいなものが止まらない。

 

ありのままの私とはこの社会において存在してはならない。

そのくらいは理解できる。

 

しかしそれなら生きていても死んでいても同じだ。

同じなら、考えに支配されることがないラクな状態である方がいい。

やっと、何かを欲しいとも思わない。

私の「ありのまま」とは死ぬことなのかもしれない。

 

命がヒトであるうちに果たせることは限られているというわけのわからない話を聞いたことがある。

それの続きを聞ける可能性があるのは来月以降だ。

 

 

久しぶりに考えが行き過ぎてくたびれてしまったことと、ひとに会うことが怖く感じたことから作業を休むはめになった。

 

実際に行けばなんてことはなかったはずだ。

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ありのままの禁止事項

約1年間、私自身は鬱状態にあるか、薬で怠さを与え余計なことをしでかさない状態にあることが望ましいと勝手に決めつけていた。

 

そこに第三者から素朴な疑問を投げかけられた。

 

躁状態だと思う時は、発散した方がいいの?抑えた方がいいの?」

 

抑えた方がいいに決まっている。…というのは所詮、私が勝手に決めたことだ。根拠がない。

実際のところどうなのかということに関して、私の中に疑問はなかった。専門医に聞いてみるしかない。

 

 

その専門医は非常に言葉を選んでいた。

「難しいところだ」という言葉がはじめにあり、その後、「人それぞれになる」と言う。

 

私の場合、禁止事項はたったの3つにとどまった。

 

自殺

喧嘩

浪費

 

以上のことがなさそうであれば、“ありのまま”でよいというのだ。

 

私は困惑した。

 

ありのまま。そんな気休めに過ぎないありふれた言葉が専門医から出るとは思わなかった。

何か、ものすごく画期的な発散方法でも発表されるのではないかと、実は内心楽しみであったほどだった。

 

しかしせっかく舞い降りた言葉である、私なりにありのままを考える。

 

私はどちらかというと明るく社交的な性格だ。そのため基本、元気な様子であってよいのだろう。

沢山のひとから存在を認められたいという自尊心を誇示する。

反面、どんな相手にも簡単に頭を下げる。何か問題が起こると、まずは自分に原因があると考える。そのことから自暴自棄になりやすいというところまでたどり着いた。

誰かに認められないことがあれば、それまでの自分のすべてに意味がないと思い、自らに対する怒りに満ち溢れ、それをそれこそ発散することなく呪いや自殺行為に走っては人間関係を壊して逃げる。

 

思い返せば部活動などの時代も、勤めていた頃もそれの繰り返しであった。

人騒がせもはなはだしい迷惑な人間だ。

 

こんなありのままが世間に通るわけがない。

禁止項目の1つ目に「自殺(行為)」があることから制御しなければならないことはおのずと見えてくる。

 

元気があり過ぎると喧嘩をする。これは躁を発症してからであるが、目上のひとに対してもおかまいなしだ。

これでは仕事も長続きするはずがない。

やはり元気さの加減はほどほどにはからなければならない。

 

ストレス発散という言葉はまたありふれている。

私はストレスというものが何ものなのか、自覚したことがない。

無自覚に何かを溜め込み、金銭で発散することは過去ザラにあった。

せっかくの工賃を貯めても、禁煙が何ヶ月続いていようと、浪費癖があっては意味がない。

そこまでの浪費も、近年はなりを潜めている。

 

 

なんだかんだ、禁止事項は的を射ている。

最低限を諭してくださったと表現できよう。

ありのまま、おそらく、今のいい加減なままで、禁止事項を厳守すればトラブルは減っていくと信じたい。

ひどい眠気

ただただひどく眠い状態が昨晩から続いていた。元気はあり、体調不良というわけではない。

 

実際に普段通りのじゅうぶんな睡眠をとったものの朝も引き続き強い眠気が抜けず、作業を休むことにした。

もしかしたら鬱転の兆しなのではないかと考え、早めに休息すれば防げるものか試してみようといったところだ。

私用や天候の理由以外で休むことは11月以来のような気がする。

 

午前9時に連絡を入れてから約3時間、不気味な夢に翻弄されながらもゆっくり休んだ。

 

眠気はいくらかなくなった。

午後の作業開始時刻にはほんの少し間に合いそうもない。

 

明日はまた通所できそうだなぁという気分になるほど元気があり逆に心配なため、念のため今日は眠る日と決める。

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反動に備える

真冬なのにも関わらず、私は安定し過ぎている。

冬は3年に一度は入院していたし、入院せずとも安定していた頃の記憶は相当遠い。

 

ハイテンションというわけでもない、落ち込むわけでもない、何らかの新しい状態、回復傾向にある状態なのだと思った時があった。

そう思う時点で軽くても躁状態なのだと認識するまで、それほど時間はかからなかった。

私は病気、あるいは病的なのだ。それを忘れてはならない。

 

なんだか身体に疲れが一気に出たような感覚で、ほぼ全身に鈍痛がある。

インフルエンザが流行しているが、それらしい症状は見られない。

念のため風邪薬を服用し、大人しくしている。

 

身体が弱るという感覚は私の中で鬱転とは結びつかない。

しかし気分はハッキリとしたままで身体を横たえていると、おのずと過去を省みるものである。

そうすると一瞬、ユウウツな気分であるかのような錯覚を起こす。

 

少しの切っ掛けから、考えを放置する術はほんの少し身について来た。

 

ひとの思考が止まることはたいてい、ないのだ。

そのため考えがなくならないことはごく当然のことである。

 

この言葉だけで私はとてもラクになった。

 

鬱転は錯覚である。

反動が来ることなどは百も承知であるが、たいていの場合、それは突如としてやって来るものだ。

 

身体が痛むわけでもないのに動かない、気分が重く何事にも興味がわかなくなる。これが私に起こる鬱転の兆候だ。

 

今は、身体は痛むが動かせないことはなく、気分は軽やかでやりたいことがたくさんある。

 

安定しているというより躁状態にあるというオチだ。

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無視できない記憶

割と久し振りに、希死念慮の類を無視できない。

こういう時はただただ時が過ぎることをおとなしく待つのだ。

頓服薬に頼る。

 

切っ掛けはやはり読書、文化的事物に触れたことであった。

テーマを自らの記憶に当てはめてしまう。

そうすると、忌々しい記憶が鮮明によみがえり、脳内は話から脱線して私の歴史をたどることになる。

 

ひとつひとつは本当にくだらないものだ。

それらが束になって一気に襲ってくる、といった表現だろうか、なんとなく、無視することができない。

 

たとえば、病状の関係で疎遠になってしまったひとから、もう何年も借りたままのものがいくつか私の手元にあったりする。

それを返さなければと考える。

そのひとたちとの、私にとってはよくない記憶ばかり呼び起こされる。

そしてひととして、ものを借りて返さないことは最低であるという持論から、希死念慮、あるいは私を殺したい衝動につながる。 

呼吸が苦しく、暗い部屋で目を見開く。

文字通り、自分で自分の首を絞めていることが見える。

 

文書にするとなんともあっけない。

 

いくらかラクになったかもしれない。

返さなければならない品は、きっと、何らかの手段で返せばよいだけの話だ。

前にも記したが、過ちは去っているはずだ。

人命を奪うような重罪を犯したわけでもあるまい、現在苦悩する必要はない。

 

考え事がなくなることはない。

考える事は当然のことなのだから。

それらを当然にあるものとして認め、ほったらかすことが現在もっとも望ましい。

 

近頃は割とできていたことだ。

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知識と資格と読書

近頃、作業所に行かない、家事もしない時間をもったいないと感じるようになった。

これまで散々、時間を流してきておいて今更なんだというのか。

 

おそらく、病状は良い方に向かっている。

B型を経て移行支援の利用を勧められている。

そこでふと思い立ったことが、今ありあまる時間を使い資格を取るための勉強をすることだ。(資格を取ることではない)

 

学生時代にいくつか取らされた資格は死ぬほど役になど立たない。

加えて、転職でもなく、開示雇用を目指す者に資格など余程の専門職でない限りなくて構わない。

 

よって、ひととして知識を増やすことを目的とする。

 

しかし昨今、資格など腐り果てるほどにある。

どこに手をつけたらよいのか皆目見当がつかない。

 

結局、書を取り知識を増やすのならば、読書に明け暮れればよいのではないかというところにたどり着いた。

 

読書。

 

私にとって躁転のきっかけをもたらすものの1つだ。…1つだった。

現在は、どうなのだろうか。

何ヶ月か前は明らかに危険であった。

少しではあるが、何かが変わってきているような気がする。

気がするだけに過ぎないことは理解しつつ、知識を持つことはどんな職にも重要である。ような気がする。

 

果たして今後、取り組むことができるのだろうか。

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