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理刹主義-躁鬱病と診断された女-

昭和生まれ、社会生活より閉鎖病棟生活の方が長い。病的被害者ではなく社会的加害者の自白。

ありのままの暴走

「ありのまま」を考えていたら結果的に制御するということになった。それも、今までは制御のうちに入っていなかった部分まで含まれるため一層しんどいような気がする。

 

そもそも「ありのまま」が分からなかった。

私はたとえばこうありたい、こうなりたい、こう見せたいという私自身を創り、常に演じてきた。そうでなければ日本における外界で生活を送ることができない。

 

なぜできないのか。

思想があまりに犯罪的であるためだ。

 

奇声をあげたい。

あいつを殴りたい。

あいつって誰?

あいつだよ、何笑ってんだよ頭にくる。

死ねよ。

お前が死ね。

なにかを解剖したい。

あ、そうだ。

ひとを殺してみたい。

だれなら迷惑が少なくて済むのか。

そうか、やはり私だ。

これから試しに私を殺してみよう。

 

だいたい、近頃は考えてたとしても頻度が極めて少なかった事柄が溢れ出てきた。

放っておくことができるキャパシティをはるかに超える考え、想像、妄想、悪夢、幻覚まがいなものが止まらない。

 

ありのままの私とはこの社会において存在してはならない。

そのくらいは理解できる。

 

しかしそれなら生きていても死んでいても同じだ。

同じなら、考えに支配されることがないラクな状態である方がいい。

やっと、何かを欲しいとも思わない。

私の「ありのまま」とは死ぬことなのかもしれない。

 

命がヒトであるうちに果たせることは限られているというわけのわからない話を聞いたことがある。

それの続きを聞ける可能性があるのは来月以降だ。

 

 

久しぶりに考えが行き過ぎてくたびれてしまったことと、ひとに会うことが怖く感じたことから作業を休むはめになった。

 

実際に行けばなんてことはなかったはずだ。

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ありのままの禁止事項

約1年間、私自身は鬱状態にあるか、薬で怠さを与え余計なことをしでかさない状態にあることが望ましいと勝手に決めつけていた。

 

そこに第三者から素朴な疑問を投げかけられた。

 

躁状態だと思う時は、発散した方がいいの?抑えた方がいいの?」

 

抑えた方がいいに決まっている。…というのは所詮、私が勝手に決めたことだ。根拠がない。

実際のところどうなのかということに関して、私の中に疑問はなかった。専門医に聞いてみるしかない。

 

 

その専門医は非常に言葉を選んでいた。

「難しいところだ」という言葉がはじめにあり、その後、「人それぞれになる」と言う。

 

私の場合、禁止事項はたったの3つにとどまった。

 

自殺

喧嘩

浪費

 

以上のことがなさそうであれば、“ありのまま”でよいというのだ。

 

私は困惑した。

 

ありのまま。そんな気休めに過ぎないありふれた言葉が専門医から出るとは思わなかった。

何か、ものすごく画期的な発散方法でも発表されるのではないかと、実は内心楽しみであったほどだった。

 

しかしせっかく舞い降りた言葉である、私なりにありのままを考える。

 

私はどちらかというと明るく社交的な性格だ。そのため基本、元気な様子であってよいのだろう。

沢山のひとから存在を認められたいという自尊心を誇示する。

反面、どんな相手にも簡単に頭を下げる。何か問題が起こると、まずは自分に原因があると考える。そのことから自暴自棄になりやすいというところまでたどり着いた。

誰かに認められないことがあれば、それまでの自分のすべてに意味がないと思い、自らに対する怒りに満ち溢れ、それをそれこそ発散することなく呪いや自殺行為に走っては人間関係を壊して逃げる。

 

思い返せば部活動などの時代も、勤めていた頃もそれの繰り返しであった。

人騒がせもはなはだしい迷惑な人間だ。

 

こんなありのままが世間に通るわけがない。

禁止項目の1つ目に「自殺(行為)」があることから制御しなければならないことはおのずと見えてくる。

 

元気があり過ぎると喧嘩をする。これは躁を発症してからであるが、目上のひとに対してもおかまいなしだ。

これでは仕事も長続きするはずがない。

やはり元気さの加減はほどほどにはからなければならない。

 

ストレス発散という言葉はまたありふれている。

私はストレスというものが何ものなのか、自覚したことがない。

無自覚に何かを溜め込み、金銭で発散することは過去ザラにあった。

せっかくの工賃を貯めても、禁煙が何ヶ月続いていようと、浪費癖があっては意味がない。

そこまでの浪費も、近年はなりを潜めている。

 

 

なんだかんだ、禁止事項は的を射ている。

最低限を諭してくださったと表現できよう。

ありのまま、おそらく、今のいい加減なままで、禁止事項を厳守すればトラブルは減っていくと信じたい。

ひどい眠気

ただただひどく眠い状態が昨晩から続いていた。元気はあり、体調不良というわけではない。

 

実際に普段通りのじゅうぶんな睡眠をとったものの朝も引き続き強い眠気が抜けず、作業を休むことにした。

もしかしたら鬱転の兆しなのではないかと考え、早めに休息すれば防げるものか試してみようといったところだ。

私用や天候の理由以外で休むことは11月以来のような気がする。

 

午前9時に連絡を入れてから約3時間、不気味な夢に翻弄されながらもゆっくり休んだ。

 

眠気はいくらかなくなった。

午後の作業開始時刻にはほんの少し間に合いそうもない。

 

明日はまた通所できそうだなぁという気分になるほど元気があり逆に心配なため、念のため今日は眠る日と決める。

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反動に備える

真冬なのにも関わらず、私は安定し過ぎている。

冬は3年に一度は入院していたし、入院せずとも安定していた頃の記憶は相当遠い。

 

ハイテンションというわけでもない、落ち込むわけでもない、何らかの新しい状態、回復傾向にある状態なのだと思った時があった。

そう思う時点で軽くても躁状態なのだと認識するまで、それほど時間はかからなかった。

私は病気、あるいは病的なのだ。それを忘れてはならない。

 

なんだか身体に疲れが一気に出たような感覚で、ほぼ全身に鈍痛がある。

インフルエンザが流行しているが、それらしい症状は見られない。

念のため風邪薬を服用し、大人しくしている。

 

身体が弱るという感覚は私の中で鬱転とは結びつかない。

しかし気分はハッキリとしたままで身体を横たえていると、おのずと過去を省みるものである。

そうすると一瞬、ユウウツな気分であるかのような錯覚を起こす。

 

少しの切っ掛けから、考えを放置する術はほんの少し身について来た。

 

ひとの思考が止まることはたいてい、ないのだ。

そのため考えがなくならないことはごく当然のことである。

 

この言葉だけで私はとてもラクになった。

 

鬱転は錯覚である。

反動が来ることなどは百も承知であるが、たいていの場合、それは突如としてやって来るものだ。

 

身体が痛むわけでもないのに動かない、気分が重く何事にも興味がわかなくなる。これが私に起こる鬱転の兆候だ。

 

今は、身体は痛むが動かせないことはなく、気分は軽やかでやりたいことがたくさんある。

 

安定しているというより躁状態にあるというオチだ。

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無視できない記憶

割と久し振りに、希死念慮の類を無視できない。

こういう時はただただ時が過ぎることをおとなしく待つのだ。

頓服薬に頼る。

 

切っ掛けはやはり読書、文化的事物に触れたことであった。

テーマを自らの記憶に当てはめてしまう。

そうすると、忌々しい記憶が鮮明によみがえり、脳内は話から脱線して私の歴史をたどることになる。

 

ひとつひとつは本当にくだらないものだ。

それらが束になって一気に襲ってくる、といった表現だろうか、なんとなく、無視することができない。

 

たとえば、病状の関係で疎遠になってしまったひとから、もう何年も借りたままのものがいくつか私の手元にあったりする。

それを返さなければと考える。

そのひとたちとの、私にとってはよくない記憶ばかり呼び起こされる。

そしてひととして、ものを借りて返さないことは最低であるという持論から、希死念慮、あるいは私を殺したい衝動につながる。 

呼吸が苦しく、暗い部屋で目を見開く。

文字通り、自分で自分の首を絞めていることが見える。

 

文書にするとなんともあっけない。

 

いくらかラクになったかもしれない。

返さなければならない品は、きっと、何らかの手段で返せばよいだけの話だ。

前にも記したが、過ちは去っているはずだ。

人命を奪うような重罪を犯したわけでもあるまい、現在苦悩する必要はない。

 

考え事がなくなることはない。

考える事は当然のことなのだから。

それらを当然にあるものとして認め、ほったらかすことが現在もっとも望ましい。

 

近頃は割とできていたことだ。

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知識と資格と読書

近頃、作業所に行かない、家事もしない時間をもったいないと感じるようになった。

これまで散々、時間を流してきておいて今更なんだというのか。

 

おそらく、病状は良い方に向かっている。

B型を経て移行支援の利用を勧められている。

そこでふと思い立ったことが、今ありあまる時間を使い資格を取るための勉強をすることだ。(資格を取ることではない)

 

学生時代にいくつか取らされた資格は死ぬほど役になど立たない。

加えて、転職でもなく、開示雇用を目指す者に資格など余程の専門職でない限りなくて構わない。

 

よって、ひととして知識を増やすことを目的とする。

 

しかし昨今、資格など腐り果てるほどにある。

どこに手をつけたらよいのか皆目見当がつかない。

 

結局、書を取り知識を増やすのならば、読書に明け暮れればよいのではないかというところにたどり着いた。

 

読書。

 

私にとって躁転のきっかけをもたらすものの1つだ。…1つだった。

現在は、どうなのだろうか。

何ヶ月か前は明らかに危険であった。

少しではあるが、何かが変わってきているような気がする。

気がするだけに過ぎないことは理解しつつ、知識を持つことはどんな職にも重要である。ような気がする。

 

果たして今後、取り組むことができるのだろうか。

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治すではなく変える

そう考えついたのは元日のことだ。

 

かれこれ2週間以上が経つ。

精神科にかかるようになってから約10年の間で、この発想はなかった。病気、病的な部分を治したいと強く思い続けてきた。

そんな中で、特別に清々しいわけでもない、なんとなくのひらめきであった。

とても気分が軽くなったように感じていた。

 

そのことも踏まえ、ここ1ヶ月の状態を医師に伝えた。

もしかすると、新たな見解をいただけるのではないかと思っていた。

そう思っている時点で、かかりつけの精神科医から見れば程度はどうあれ躁状態なのだろう。

 

現在の私は、生活リズムが安定し、真冬なのにも関わらずあくまで「状態が良い」だけのことらしい。

 

しかし医師の診察自体も、以前に比べれば軽く受け止める、あるいは軽く受け流すようになった。

ああ、そうか。状態が良い、つまりまた悪くなる時がやってくるのか。それはいつなのか。

考えたところで悪くなる時は突如として悪くなる。考えるだけ無駄なことだ。

以前のように深く考察しようとは思わない。

 

これは、とても「いい加減」な状態である。

月並みなたとえでは「良い加減」とでもいうのだろうか。

しかし後者ではなさそうな気がする。

 

近頃の私は私自身に対して極めていい加減である。

 

ほんの1、2ヶ月前に緻密に考えを巡らせていたことが信じがたいほどだ。

きっと、今こうしていい加減であったことが信じがたくなる時が来るのだろう。

そういうことにしておけば、「その時」に少しは安心であると思う。

虚しさと平凡

なんとなく、本当になんとなく、おそらく悟りの片鱗を想像するようになってからである。

私における全体的なものごとが虚しく感じるようになった。

 

ただし、過去にあったような失望感、倦怠感、強迫観念、希死念慮などとはまったく違う。

虚しい中で、前向きなのだ。

 

ああ、また考え事をしている、くだらないなぁ、そんなことより何か少しでも今を面白くしよう。と、したところでどうにもならないが、別にそれで構わない。

 

そんな発想になる。

「虚しい」という表現では厳密には誤りなのかもしれない。

 

先々について楽観視しているわけでもない。

つい先ほどまで、明日、肉親が亡くなるのではないかと考えていた。

ああ、いつ死ぬかの問題だな、とただ思った。

実際に今そうしたら私はどう行動しよう、などと比較的冷静に想像する。

想像したところで、この想像は無駄であるなぁなどと考えを放置する。

 

軽い躁状態といった表現が相応しいような気がしてきた。

ただし、躁状態にしてはものごとが楽しくはない。

やはり虚しい要素の方が強い。

 

これはどうしたことか。

 

よく分からないが、これはこれでこのままにしておけばよいと思うことで終わる。

 

前回記事を書いた頃より先に特別、悟りについて学んだわけでもないし、悟りたいと考えるわけでもない。

思考はただ勝手に流れている。

真冬に身体が割と動かせることも珍しい。

 

私にとっては新しい冬である。

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過ち去ってうつつに在り

年末年始にかけてまともに自宅にいることが久しぶりである。

体調を崩したり、強制入院したりすることが多かった。

 

冬場に弱いことは分かりきっている。

そこをある程度、事前に対処できるようにならなければ話にならない。

 

変調をきたす原因として、過去に交流があった友人知人との良くない思い出や出来事に関係することが多い気がしている。

なんとも小さく虚しいこだわりだ。

 

中には「あの頃はよかったなぁ」などとサラッと受け流せる事柄もある。

そうでない場合、私自身がその友人知人に深く執着しているのだと考えついた。

 

反して彼女らにとって、私はどうでもよい存在なのだ。

 

そのことを受け入れ、今ある場所で私なりの人間関係を保てばよいだけのことだ。

過去の私を否定されたところで、本来、現在に支障はないはずである。

それをどうにかして常時考えずとも構えられる、無意識にできるようになることが目標だ。

 

たとえば軽々しく浮かぶことを挙げるなら、彼女たちの実名を連ねた直筆の文書を遺し首を吊るというものがある。

私はあなた方を怨んでいる、そのことを命を投げながら伝えたところでどうなるのかという想像をする。

 

その想像自体に何ら意味がないことに気がつく。

 

なぜなら対象の反応を、私が確実に見られる保証がないからだ。

自殺未遂という行為が希薄になっている。

死ぬことを前提にするなら、どんな行いにも意味がない。

たとえ彼女たちの中のひとりにでも生涯に渡り何らかのダメージを与えることができたとしたところで、それに苦悩するその人物の状態を拝めないことでは意味がない。

以前に誰一人として苦悩などしないだろう。

 

 

「過ちが去る」と書いて「過去」になる。

すべて過ちなのだ。

 

過ちを積み重ね続けてようやく「現(うつつ)に在る」ことができる。

 

なんとなく、今まで私は過ちのみに苦しめられてきただけのような錯覚をする。

いくら過ちを償おうとしたらところで、償いたい対象との在る場所の違いによりその手段すら見当たらない。

うつつに苦しむ方が、生き物として魅力的なような気がする。

悟りのはなし

親族の中に10年以上、日常的に座禅をしている者がいる。

彼自身が悟りを得ているわけでは決してないし、覚えたわけでもないと言っていたが、何やら野望があり、社会学的な観点から研究しているらしい。

その話が大変興味深かった。

 

既にお亡くなりになっている、とある風変わりな住職さんの話から始まった。

その住職さんは、話によると完全に悟りを開いていたらしい。

「野鳥や野生のタヌキなどに人間扱いされない」、「草木と会話をする」といった、私の言葉でたとえるなら「特殊能力」をお持ちだったそうだ。

そして集う人々のどのような悩みもたちまちに聞いてくださるという。

私は一度だけ、親族に連れられかの住職さんにお会いしに行ったことがある。

ただし体調がすぐれなく、最後までお話を聞けることはなかった。

精神の病気ということをどこまで具体的に伝えたのか分からない。

それでも、そういった類の悩みであれば、自分で治そうという気にならなければ治らない(戻らない)と後におっしゃっていたそうだ。

その手段のひとつとして、座禅で無心を探すこと、考えを放ったらかしにする時間を持つことは効果的であるらしい。

 

ひとことで座禅といっても数々の宗派がある。

当てはまるものや、限りなく真理に近いものを探し出すことは到底容易いことではない。

その中でほんの少し悟りを知る切っ掛けを得ることができれば楽しく生きることができるのではないかと私は考えた。

悟りとは、平たく表現すると無心になること、自身がなくなることだという。赤子帰りだともいっていた。

とてつもなく人間離れすることになるが、それが本来の姿であるらしい。

 

話を聞くうちに、私などのほとんど必要がない存在ならば出家をするのも悪くないのかとほんのり考え出すほどに興味深かった。

そう考えた後、人間臭く在る方が魅力的だなぁなどといったところに落ち着く。

 

私は悟りたいわけでも尼になりたいわけでもない。

しかし、医者に頼るのではない、胡散臭い話は胡散臭いと認識しながら、社会生活を営み、「ゆたかなこころ」を持てればよいのかと思う。

私という存在はここにたまたま「ある」だけで、今こうして機械を使って言語を打ち込んでいる風景もたまたま「見えている」ように感じるだけである。わけがわからなくなってきたが、理屈や言語が先に立つものではないというのだからしかたがない。

 

そもそもが仏教とは宗教ではないらしい。

では何なのかとしたところで、私の持つ言葉では説明ができない。

 

ただ、個人主義にこだわる私自身がとてつもなくどうでもよいと感じた。

 

ちなみに通夜に口語で聞いた、現代の日本においてもっともポピュラーな仏教の死生観の話に対しては、私は個人的に腹立たしくて仕方がなかった。

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