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理刹主義-躁鬱病と診断された女-

昭和生まれ、社会生活より閉鎖病棟生活の方が長い。病的被害者ではなく社会的加害者の自白。

恋をすること

激しい恋愛感情とは、私の場合おおかた躁状態を孕む。

私の恋人は喜怒哀楽の表現が乏しく感情が希薄である。また、あまり話をする方ではない。

だからある意味バランスがとれている。

 

たとえば感性豊かで話好きな男性に心が惹かれないこともない。

4〜5年前の精神状態であれば、私は考えなしに感性豊かな男性に猛烈なアピールをしていただろうと思う。

今はなんとなく、そうしても良いことより悪いことの方が多いだろうなと思うようになった。

感性豊かで話好きな男性が魅力的であることには変わりない。

ただ、それは恋心ではなくひととしての憧れかあるいは無い物ねだりでしかないことを分かってきたのだということにしておく。

睡眠障害と意欲低下

中途覚醒がいつになってもなくならないことをほぼ諦めている。

何年も、朝まで一度も目覚めなかったことなどない。

具体的には4時間以上連続して睡眠をとることが困難である。

これはおよそ睡眠障害と呼べるだろう。

 

加えてここ数日は著しく意欲が低下しているような気がする。

ただただ、物凄く、通所したくない。ついでに食欲もない。

なんだか1年前の今頃もそうだったような気がする。

ただし死のうとする意欲はある。

踏切の遮断機の警報音はなんの音よりも頭に響く。

そんな意欲があるうちは大丈夫だろうと言い聞かせる。

 

さて、今日も早朝に目が覚めたわけだが、果たして通所して良いものなのか。

昨日までは半ば強引に通所した。

気にかかる問題点はいくつかある。

都合よく手の空いているスタッフはいないものだろうか、人様と会話はしたい。

そんなに上手く物事は回らないだろうと思いつつもなんとなくゆるやかに希望を持って何もしないでいたい。

久しぶりに強く不安定

3連休で眠りすぎている。

やや微熱があったため市販の漢方薬を買ってきて早めに飲んだ。

ここへ来て風邪をひいたのでは笑われる。

 

なんだか3〜4年前のことが思い起こされてひどく落ち込んでいる。

当時夜中になればいつでも線路にかかる陸橋へふらふらと歩いて行き下を眺めていた。

自己中心的な考えで生活環境を強要し、私自身は何もせず母親に多大な迷惑をかけていた。

何様のつもりだったのだろう。殺したい。

 

並びにさらに昔にあった人間関係のことも思い起こされたりしている。

よく一緒に過ごしていた友人が多くいた。

彼女たちの記憶の中から私が消滅していることを強く祈る。誰の記憶の中にも生きていたくない。

 

近頃になって新たに広がってきた人間関係、そんな中、私が突如として自害したとしたら、皆少しは驚くだろうか。

 

脳は結局、大層な仕事はしないらしい話を聞いたことがある。

考えることほど、無駄でありたい。

季節が変われば

眠気と気だるさが強い日が続いている。

これだけ続くのも近年めずらしいため、ついに季節のせいにしてみることにした。

 

季節性の気分変調は存在するのだと思う。

ただし私の場合、どの季節に変調をきたすのかが特定できない。強いて挙げるなら冬であるが、明らかな軽躁の真冬もあった。

そわなわけで私は気分、体調の不安定さを気候のせいにはしたくなかったのだ。

 

今朝は体が重かったから、明日は軽やかだろう。

今日軽やかに動けたから明日は眠いだろう。

そんな一進一退な生活が続く。

秋が過ぎればきっとある程度の元気を保てるようになるだろう。

そんな風に考えられれば、季節のせいにすることも悪くはなさそうだ。

 

中途覚醒がなくなればラクになるだろうなあと願いつつ、夜中起きることも根強い習慣になってしまっている。

抑えた事故死

情けない。

本気を出せば全日通所が可能なのではないかと勘違いしていた。

本気を出して出来るなら何年も前から滞りなく働けているのだ。

本気だとか本気じゃないだとか関係なく体がいうことをきかない時があるから訓練をしているのだ。

 

外に出て大通りに飛び込みたくなったり線路に飛び込みたくなったりを抑えるだけで精一杯であった。

「抑える」という行為は私の場合やはり鍵になるのだろう。

気分は絶好調にウツだ。

この脅迫めいた死のうとする思考は躁のような気がする。

 

私は死のうとしながら生き続ける。

心持ちが悪い

深刻ではなく、穏やかに希死念慮が流れることが近頃少なくない。

果たして気分的に1日もつだろうか。

 

これはおそらくピア的な発想から来ているような気がする。

誰かに支えてもらうことはとても助かる、しかし私自身誰かを支えようなどと到底おこがましい話だったのだろう。

そしてまた、私を支える誰かが苦しんでいるのだろうと考えると存在否定に繋がる。(支える側の人間にはそれを対処する能力が備わっているというのに)

 

ピア自体には興味しかなかったため講座に参加できたことに悔いはない。

セルフケアの能力が欠如している。

働くために死ぬ

たとえば再び就労できたとする。

そうした時、私は常に、死んでしまいたいと思いながら働くのではないかと感じた。

しかも昔の私は、常に死んでしまいたいと思うことは人間として当然のことだと考えていた。

どうやらそうではないらしいことが、最近わかってきた。

 

どうすれば働いても死のうと思わずに済むのだろうか。

どうして働くと死のうと思うのだろうか。

どうして常に死ぬことを考えるのだろうか。

どうして働くことに死ぬほどこだわるのだろうか。

 

待合室で泣いていた。

泣くことができる私は比較的健康的である。

特に何も感じない時

そんな感覚を維持できることが理想なのではないかと思った。

 

今日は朝からずっと眠気が強かったがそこそこのスケジュールをこなし、体も動かした。

帰り道で落ち込むこともなく、調子に乗ることもなく、なんだか嫌だと思うこともなく、

だからといってラクでもなく、

ただただ、歩いていた。

 

おそらく何故何も感じないのかを考えなければならない。この感覚を保つためだ。

しかし考えることも徐々にくだらないと思えている今が結局どうでもよく過ぎていくのも悪くない。

無意識なストレスの意識化

近ごろ事業所でストレスについて学ぶ機会が続いた。

近年、私はストレスを過度に感じることはほぼなかった。

それが「ストレスに気づいていなかった」だけのことであることが分かってきた。

 

数年前、ひどい強迫性症状に見舞われることが多かった頃は常にイライラしていて、それこそストレスしかなかったのだろう。

悟りの話を聞いてからだ、考えを放置する術が身に付き出した。

そこには意識を無意識にする努力があったような気がしなくもない。

今度はストレスが見当たらない。なんとなく極端に、私は変わってしまった。

 

ネガティヴケイパビリティという言葉も知り、なんとなく簡単な方簡単な方へと考えていた。

しかし悪質であれ良質であれストレスは、確実にあるのだ。

 

おそらく私は否認型コーピングが行き過ぎている。

この為ストレスに気がつかない。

フレーミングアサーションの方が発散法(?)としては向いているかもしれない。

これらを上手く組み合わせて対応していければ理想であるが、きっと具体案やバランスは難しいものだろう。

 

いずれにせよ、無意識の意識化には興味がある。