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理刹主義-躁鬱病と診断された女-

1986年生まれ。 2002年、精神科受診を余儀なくされる。 2008年、精神科閉鎖病棟入院(病名不明)。 2011年、躁うつ病と暫定。 2017年までの約10年間入退院を繰り返す。

人生30年のすすめ

このところ学生の自殺の記事が多く目にとまる。

何とも表現し難い気分になる。

時代に応じて、その手段を変えて健在するいじめ。

どんなに対策をこうじようとも、それ自体を教育の現場から切り離すことは出来ないという考えのもとで働いているという中学教諭の方の投書を読んだことがある。

 

小学校6年に上がった頃、幼馴染の女の子を指し、「あの子はムカつくから、あいらもこれから無視して」といったことを他の女の子に言われたことがある。

私個人としては微塵もムカつかなかったので戸惑った。

自宅で母親に相談したところ、「私はその子のことが嫌じゃないから、そういうことはしないと伝えたらいい」と諭され、翌朝実行した。

幼馴染の子とも、「無視」を強要してきた子とも円満に生活していった記憶がある。

相談して本当に良かったと大人になってから母親本人に伝えたら「まったく覚えていない」と断言された(無責任)。

 

中学に上がり、自虐体質が強くなっていった頃など、多少の「いやがらせ」などは順番に受けたが、周りは何故、私のようなつまらない生き物をいじめの対象にしないのか疑問であった。

いじめる価値もないのだろうと、とことん自虐的に考えていた。

過去にも記したが、いじめの最上級は「無視」だと考える。

現代ではそれが「既読スルー」という言葉に当たるのだろうか。

スマートフォンという物体がある時点で物理的に何らかの接点があるのだから「無視」とは異なるだろうものの、おそらく、報道には載せられないそれ以上の何かがそこにはある。

 

高校の倫理社会の授業で、自殺の問題が取り上げられたことがあった。

当時の一部始終をまとめた後、教諭は17、18歳の生徒たちを前に断言したのだ。

 

「どんなにつらいこと、苦しいことがあっても30歳までは生きろ。30になって人生が面白くないと思ったらその時に死ね。今は死ぬな。」

 

とてつもなく衝撃的な言葉だった。

 

教諭の歳の頃は当時40代後半から50前後に見え、妻子持ちの貫禄がある方だった。

聞いた時は、学校から自殺者が出たら困るための抑制だろうと偏屈にとらえた。

しかし、何かにつけてこの「人生30年論」は私の脳裏に残り続けた。

 

そして29歳のある日、交際相手と一緒に何気なく入ったバーで、新たな衝撃を受ける。

そのバーでは、足を不自由にされた音楽家がギターを弾きながら歌っていた。

酒の席の話である、すべては間に受けずとも話していたところ、年齢を聞かれ、「今年30になる」と答えた。

「30!まだ“人類”でもないね!」

高らかに屈託なく笑いながらそう言って酒を煽る紳士は、とても楽しそうに、曲をリクエストすると山口百恵の「秋桜」を歌ってくれた。

本当に、冗談の類だったのだと思う。

しかし本当に、それまで十年以上秘めていた「人生30年論」はあっけなく崩れ去った。

 

 

それでもなお、自殺未遂を繰り返すことがある。

これは躁転した時に見られる。

抑制が効かなくなると、目が覚めると病院のベッドの上ということは何度かあった。

もう二度と、ここへは戻らないと決め、初めて自らの意思で前向きに入院したのが昨年末からの約3ヶ月である。

自分を制して、また、堪え難い死別を受け入れて、

生きていかなければならない。

特別的な差別

希死念慮という言葉を知った。

自殺願望とは異なるらしい。

どちらかというと私が常時持ち合わせるのは希死念慮だ(著しく躁に転じている時は除く)。

死にたいというよりは死ななければならないと考える。

これは思春期(小学校高学年)頃から持ち合わせている。

どうやらそういった体質もあるとのこと。

一般にこの考えは常にあるものだと思っていた。

自分の価値観を世間に埋め込んで相対的な思考負担を同等のものだとする偏見から来ている。

一過性のものとして希死念慮を持つことは多いのだろう。

たとえばこれが慢性的なものではなくなったら、どれだけ生きやすいかを想像する。

想像したところで、次には自殺願望に繋がるのだろうと落ち込む。

分かっている。

自分が思うほど、自分には価値も存在感もないのだ。

おそらく自信過剰というものだ。

街中で他人とすれ違う時、出入り口が混雑している時、

間違いなく先を譲る。

「ごめんなさい」と声を出す。

「ここに存在してしまい」、「申し訳ありません」を意味している。

そうしたところで、人混みに紛れればゴミとなることに変わりはない。

 

先日、主治医に抑うつ状態をうったえたところ驚かれたような気がした。

何らかの気分障害ではあるだろうものの、フォースオピニオンも必要な時期かもしれない。

しかし精神科に長く通院して、いったいどうしたいのか、どうなりたいのか、どこまでが自我でどこからが障害なのか、

もはや分からない。

障害と呼ばれる範囲をなくそう、治したいと考えていた時期もある。

ほぼ同時に、それは差別的な意味を孕んでいるのではないかと考えた。

そう考える時点で差別である。

私が差別される分には構わない。

むしろいくらでも排除していただきたい。

基本的人権の在り方が叫ばれているように感じる昨今、旧憲法の社会を体験していない世代としては先人たちに死をもって償うしかないほどに「存在」の意義を見失っている。

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喫煙に関する医師の所見(暫定)

躁転のことと抑うつ状態のことをお伝えしたところ、「1人で過ごせそうか」と聞かれた。

これはおそらく入院への危険信号だ。

約2ヶ月やってきた。なるべくそれは避けたい。

現在の主治医には長くお世話になっていて、今までにお会いした精神科医の中では一番、治療に慎重なかたである。

眠れば落ち着くという発想が寝付けないこともあるという落とし穴に差し掛かり、頓服薬としてクエチアピンという薬を処方していただいた。

これは眠前薬としても服用している。

即効性はないが、気だるさをもよおす作用(副作用?)があるため、躁転時に服用とのこと。

気休めでもありがたい薬だ。

 

また、禁煙についてお聞きした。

現行の治療方針からニコチン依存についてまで、丁寧に説明していただいたものの、要約すると気分障害の波に応じて、特に躁と感じられる時、禁煙が絶大なストレスとなり危険な行動に及ぶ可能性があることから現段階では勧めていないとのことだった。

内科医との綿密な相談が必要であり、たとえばニコチンを摂取するシールを貼るパターンの場合、タバコを吸うという「行為」自体への依存は抜けず過剰なニコチン摂取により急性症状で突如として倒れることがあるなどの留意を示された。

後述に関しては今の私ですら想像がつく。

いずれにせよいたって保守的な考えに基づくものであることが分かる。

 

やはり節煙したいとぼやくと、

「火の元にだけは気をつけて」と何度も念を押された。

抑うつ状態っぽい中で社会風刺

これもまた急なことで、日中は普段よりも長めの時間、散歩をしたり運動を繰り返したりと活発であった。

気分は荒んでもいなかった。

夜、ご近所にお邪魔し、しばしの団欒をごく普通に楽しませていただいた。

帰ってきてからである。

どうも気だるい。

気分は普段に比べ落ち着いている。

おそらく、落ち着きすぎてすべてがどうでもよくなっている。

躁転時のどうでもいい感覚とは全く違うものであり、出来ればこのまま消え去りたい感覚だ。

睡眠をとれば確実に気分は変わることは分かっている。

しかし寝付けない。

消えたい、死にたい、虚しい、憂鬱な気持ちばかりがくるくるともやもやと頭の中をめぐっている。

穴があったらではなく墓があったら入りたい、などと多少うまいことを考えても表情も気分も変わらない。

疲れてきたのだろう。

何も悲しくはない。

ただ虚しい。

アカシアの雨に打たれてこのまま死んでしまいたいというフレーズは病棟で人気があった。

 

ところで昨今、偏屈に世の中を見ていると痛く実感することがあった。

「あたりまえポエム」というものが流行しているらしい。

そのすべてを読んだわけではないから断定はできない。

しかし報道で取り上げられるもののすべてにおいては、少なくとも五体満足のヒトにとっての当たり前でしかない。

茶化すような取り立て方しかされていないが、その当たり前ということの素晴らしさの本質を承知した上で取り扱っているのか否か、

もはや憤りすら感じる。

急な躁転(原因不明)

久しぶりに「とても」ハイテンションだ。

危険な気がするのでできる限り冷静に状況、状態を分析する。

 

なんとなくそわそわしていたので散歩をした。

清々しくなった。

帰宅後ラジオ体操、筋肉トレーニング。

落ち着かないのでタバコを吸った。

なお変わらないため仮眠をとり落ち付けようとしている段階、近隣住宅の生活音がやたら耳障りに感じた。

寝付けない、様々な過去の友人知人が浮上、想像が想像を呼びわけが分からなくなる。

親族に電話にて危険信号を送ると、「楽しいこと」を想像すればよいのではというアドバイスをもらう。

少しだけ考えた時点で火に油だと気づく。

涙が出る。

そして声をあげて笑う。

「みんな死ね」「殺せ」「殺す」などと声を上げながら高笑いはしばし続く。

あとはたとえ匿名のインターネットであろうと記載出来かねる具体的で犯罪的なことを想像し続ける。

 

今がチャンスかもしれないと、メモを取り始める。

 

そんなところで涙も乾いた。

昼食を摂りそのまま横になろう。

社会と命、疲労と結果

何ヶ月か前、テレビ番組で聞いた話である。

(私の場合、テレビは聞き流すもの)

 

疲労感がなくても実際身体は疲れているといった内容が流れていた。

過度な労働に対し疲労感が伴わないことは危険なのだそうだ。

 

事実、終電間際まで作業に没頭し帰宅後午前4時頃まで勉強、翌6時に起床、通勤片道1時間半という生活をしていた頃、疲労を感じることはなかった。

精一杯働いているという、勘違いしかない陶酔におちいっていたのだと思う。

食事を摂る時間も惜しかったため電車内で具合が悪くなることはしばしばだった。

元来要領が悪く、手を抜くということができない面倒な気質だ。

要領よく生きるコツはいまだに見出せない。

当時、「どんなグズでも治る本」という書籍を見つけ熟読しひとつひとつ実行していたが、そんな本を読む時点でそのグズは生涯治りようがない。

 

某大手広告企業の新入社員が過労自殺に追い込まれた事件は記憶に新しい。

彼女が「思い描いた」社会はそこにはなかったのだろう。

近い職種だったため共感とともに不謹慎ながら羨ましさがある。

私が勤めていたことは一昔前の話であり、命が健在する以上、今更時間を金で返せなどと取り立てたところで相手にされないことくらいは分かる。

だからこそ「尊い自殺」を風化させてはならない。

自分の命は自分で守るとはよくいわれる。

しかしそれは社会でではなく災害時の話だ。

 

私は、今なお自分の命よりも社会的評価に絶大な価値を感じるのだろう、と、実感させられる話題が身近にのぼったため思うところがたくさんあった。

 

何につけても開き直って命を安売りすることは極めて醜い。

それに気付きながら、醜く、惰力のみで生きていくであろうことがなんとなく見える。

あまり楽しそうではない。

 

そもそもが、成人してから社会に出ていた期間よりも精神科閉鎖病棟に隔離されていた期間の方が長い、割と珍しい種類の人間が首も手も口も指も出すような次元の話ではなかった。

 

命よりも大切な仕事は山ほどあるように見える。

そう見えてしまうことが病的なのだろう。

 

節煙と双極性障害

喫煙について記載してから、誰が見るわけでもないのにタバコを吸うこと自体が後ろめたくなった。

大げさでなく、喫煙のたびに何かに人格を深く否定されるような気になる。

案外、自らの心理操作などたやすいのかもしれない。

ただの小心者という本質も持ち合わせる。

事実ここ数日間、本数は激減している。

タバコを目につく場所に置かなくなった。

肺活量は一般的であると自負しながらも、運動の際に息切れが気になる。

大切な大切な金銭を燃やしている。

燃やし続けて10年。

なんたる大罪だ。

いいこともないじゃないか。

 

というわけでわざと「節煙」というタイトルをつけた。

3ヶ月後、「禁煙」にしてみせる。

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頭を打ち付けること

高校の頃からだと記憶する。

思考がまとまらない時、発信が思わしくない時、苛立った時など、自発的に思い切り床や壁に頭を打ち付けることがあった。

学校、病院、自宅、親族宅と、場所を選ばなかった。

周りから見れば奇怪な行為だ。

しばしば、それを自重してきた。

自重できるようになったのだと過信してきた。

昨日、思いがけず自宅の扉に頭をぶつけた。

一過性の痛みとともに、強烈な爽快感があった。

過去、頭を打ち付けることによってすっきりしてきたことを思い出してしまった。

出来ればなるべく硬い壁がいい。

コンクリートが望ましかった。

1人でいる時なら、何らかの発散方法としてまた利用するかもしれない。

殺傷願望

眠いところを食後3時間までは寝ないと我慢しているからなのか

歩きすぎて足が筋肉痛だからなのか

タバコの数を気にしているからなのか

肌荒れが一向に治らないからなのか

近隣住宅の生活音が気になるからなのか

予測変換が上手くいかないからなのか

大声など抑えられると過信しているからなのか

 

理由は分からない。

ただ、変わりたい、変えたい、戻したいだけ。

夜になるとたびたび、包丁で自分の胸を刺す錯覚を起こしたり、知っていた誰かを明白に殺す場面を想像することがある。

割と堪え難い。

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喫煙と双極性障害

今更告白すると、私は喫煙者だ。

1日に平均1箱(20本)ほど、デザイン事務所に勤めていた頃から10年以上にわたり習慣、依存になっている。

主治医から「無理にやめることはない」と過去二、三度言われたことがある。

入院中など、看護師から「タバコを吸うくらいで気持ちが落ち着くならばいくらでも吸えばいい」とすら言われたりもした。

そこに医学的な根拠があるのかないのかは知らない。

しかし自分にとって都合のよい助言(?)なので甘え続けている。

経済的に自立していない状態で現代における高級嗜好品をやめられないことが、他の生活費以外での出費を極端に控えようとする裏付けとなっている。

 

経済的理由から禁煙したいという希望はあるらしく、禁煙外来というものに頼ろうとしたことがあった。

その際には、精神科の薬をこんなに飲んでいる人に禁煙薬は処方出来ないと断られた。

 

「鉄の意志」がないため、ダラダラと禁煙とは程遠い生活をしている。

インターネットの情報に踊らされることにはうんざりする。

このところは1日にどのくらいの頻度でタバコを吸うのか記録して、金銭的に大層残酷な結果を見て落ち込んでいる。

禁煙が可能になれば、いくらか自由に金銭を使わせていただいても許されるかもしれない。

ただし誰が許すのかなど、ほとんど決まってはいない。

いわゆる自己満足に近いものだ。

 

身体的健康面からの考察はまったくと書いてよいほどない。

平均寿命が短かろうが、肺気腫だの、がんだのと診断されようがタバコをやめられない自信がある(ある意味「鉄の意志」)。

すべては目先の「カネ」だ。

 

自殺未遂に煮詰めたタバコを利用したこともある。

残念ながら願いは叶わず、現在こうして浪費を続ける。

昔の友人に「死にたければタバコを食べればいい」と言われたことを思い出したことがその際の未遂の切っ掛けである。

「仕事」の不満足度に、かなり追い詰められていたため本気にしていた。

 

ここまで来て、他者に「言われた」ことを言い訳にタバコに依存する自分が見えてきたような気がする。

記録を付けることによって金銭面での罪悪感も増してきている。

やめるか。やめられるのか。

だんだん自分に苛ついてきた。

 

そうしてまたタバコに火をつけるのだろう。

考えないことが得策かもしれない。

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